「界隈」の時代に、何が「ポップ」になりうるのか?

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著書『スピード・バイブス・パンチライン』にて、ラップと漫才の「しゃべり」論を展開した文筆家・つやちゃん。象徴するポップスターなき今、あえて時代を読み解くキーワードに「ポップ」をあげる理由とは。


かつて「ポップ」という言葉には、ある種の共通了解があった。TVで知る流行語、街で誰もが口ずさむメロディ、雑誌の表紙を飾るアイコンたち。誰もが知っていて、語れて、まねできるもの。それが「ポップ」だったはずだ。時代を象徴するポップスターは、大衆の欲望を背負い、流行は文字どおり“空気”として共有されていた。

けれども今、そうした「全員に共通するポップ」的な存在は、ほとんど見当たらない。ヒット曲を知らない人がいてもなんの違和感もなく、誰かにとっての国民的なスターが、ほかの誰かにとっては名前すら知らない存在であることも珍しくない。SNSやサブスクの普及によって文化は急速に細分化し、かつてのように同じ雑誌を読み、同じTV番組を見ることで生まれていた「共有された前提」は消えつつある。

それは同時に、表現や熱量が局所化していく「界隈」の時代の到来でもある。2024年のユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に選ばれた「界隈」という言葉は、現在の文化状況を象徴的に表している。つまり、それぞれの場所にそれぞれのポップがあり、それぞれの文脈がある。好きになる理由も、それが届く経路も、人それぞれなのだ。今は、皆が知る「大文字のポップ」が存在しない時代だと言えるだろう。

ano、XGと「翻訳可能性」

では、そんな25年において、何が「ポップ」たりうるのか。どのような表現が、分断された界隈を超えて届きうるのか。あるいは、そもそもポップであるとはどういう状態を指すのか──。

その問いへのヒントは、界隈がその熱量を保ちながら大衆へと開かれていく過程に見いだせるのではないだろうか。そこで重要になるのが、複雑で閉じられがちな文脈を、共通言語として解きほぐしていく「翻訳可能性」である。

例えば、“あのちゃん”の愛称で知られるanoは、まさしく界隈的なアイデンティティが、大衆的なポップへと翻訳されていった稀有な例だ。もともとはアイドルグループ・ゆるめるモ!のメンバーとして活動していた彼女は、「人見知り」「口下手」「目が泳ぐ」「しゃべりが不安定」など、TV的なバラエティタレント像とは真逆のキャラクターをもっていた。しかしその「社会的なズレ」を魅力と感じる感度層に支持され、「わかる人にはわかる」存在として、界隈的な熱量を高めていった。次の段階として、そうした“ズレていてもむしろそのままでいい”という非・適応の美学が、TikTokなどの短尺プラットフォームで拡散された。一言の絶妙な間合いや、あのちゃん語と呼ばれる言葉づかいなどがミーム化し、言葉・しゃべり方・間の取り方までもが再現可能な記号と化していった。そして最終的には、「水曜日のダウンタウン」などのTV番組で“異物”としての存在感を強調されつつも、エンタメの一部として機能し、大衆へと浸透していった。「ズレている」「言葉が変」「テンポが違う」といった特徴が、タレント的な個性として再構成されていったのだ。

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文=つやちゃん

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