「ローカルを見たい」という欲求の裏には何があるのでしょうか。“その土地に溶け込む” ことだけがその欲求を満たす答えなのでしょうか。安西さんの文章からそんな問いを思い浮かべつつ、あるエピソードを思い出しました。
先日、ドイツから来日した友人と2人でディズニーシーに行く機会がありました。彼女は私がミュンヘンに住んでいた時の友人で、同い年の子供を持つママ友でもあります。学生時代にアメリカのディズニーワールドで働いていたこともある大のディズニーファンで、今回日本の施設に行くことを楽しみにしていました。
一方の私はというと、最後にディズニー施設を訪れたのは15年以上前。今となってはディズニーは子供のものだと少し冷笑的に見ていたところがあり、当日はただ彼女に付き添うことに努めようと決めていました。
足を踏み入れて驚いたのは、訪日観光客の多さでした。15年前には想像できなかった光景です。よく考えれば当たり前のことですが、ディズニーは国際的なブランドであり、そのコンテンツは世界中でローカライズされています。異なる背景の人たちが同じように「懐かしい」と思えるコモングラウンドの代表例です。
異国でマクドナルドやスターバックスなどの知っているお店を見つけると安心することがありますが、園内ですれ違うどの人もそのような安心感をもって歩いていることが見て取れました。
同じものを違う視点で
言語の違う人とディズニーを題材に雑談していると気づくのは、ローカライズされたキャラクターの名前や口調の違いです。子供の頃に触れ、頭よりも心で覚えているコンテンツだからこそ、彼らから出てくる異国風の表現に妙に違和感を覚えることがあります。
例えば、イタリア出身の私の夫はミッキーマウスを「Topolino(トポリーノ)」、ドナルドダックを「Zio Paperino(パペリーノおじさん)」と子供に教えます。イタリア語の絵本のなかのドナルドは、日本のドナルドよりも口数が多く、文句ばっかり言っています。イタリアでよく見る「態度が悪いが憎めない人」を体現したような性格です。同じキャラクターでも「愛される存在」の振る舞いは文化によって変わるのだと実感します。
さて、私の約15年ぶりのディズニーですが、それは大変楽しいものでした。その理由はアトラクションや体験自体の内容よりも、友人との会話のなかで「ディテールの違いにあるローカル」を見つけたことでした。彼女を通じて新しい「ディズニー」を発見したのです。同時に彼女と「ミュンヘン」という土地のつながり、「母親」という属性のつながりに加えて、「ディズニー」を介した“第3のつながり”を得たように感じました。
ディスニーをラグジュアリー旅の理想モデルとして持ち出したいのではありませんが、ローカル体験の価値は「知っていると思っていたモノやコトを目新しく見れるようになること」なのではと思ったのです。


