ぼくは老人介護の現状に詳しい人などに打診してみましたが、「そんなの無理だ」と一律に否定的。それも当たり前です。ザイラーは亡くなった直後の家の様子をそのまま記録したいというのです。とすると、死亡が確認されて数日以内ということになります。
そこでぼくがあたったのは遺品整理サービス業の会社です。何社にもメールや電話でコンタクトした結果、1社だけ協力してくれることになりました。このような孤独死が社会のなかで問題視されるべきだ、と考える経営者の判断です。
そうしてザイラーは日本に行き、何軒かの現場を実際に撮影することができました。何年かがかりでやらないと数が集まらないから来年も、となったときパンデミックが発生。見知らぬ外国人が個人宅に足を踏み入れるなど不可能な事態になりました。彼も当時「パンデミックによって世界中であまりに多くの人が死ぬ状況になり、日本の孤独死がメディアで取り上げられにくくなった」と話していました。
そういうわけで、このプロジェクトは頓挫してしまいましたが、彼が見ようとしたのはぼく自身も知らない日本の姿でした。孤独死の多くは東京で発生しており、しかも23区内の北東部に多い。これほどにローカルに密着したテーマはない、と今にして思います。
「ローカル密着」とは何か
そうすると民泊をベースにしたローカル密着型の体験とは具体的にはどういうものなのか、と考えざるを得ません。何を知り、何を経験し、何を楽しみ、何を自分のものにしたいために、こうした旅をしたいのか。アフリカの未開地の村に行くのではなく、それなりの経済先進国のローカルです。
地元の人たちと出会い会話を交わす。それで何を聞くのが可能で、何を聞くと失礼にあたるのか。そういう範囲を知るだけでも異文化を感じたりするものです。近くのスーパーに行って商品の陳列棚を眺め、どんな種類の商品が多いのかを目にすれば、その土地の食生活を想像することもできます。しかし、それはあまりにナイーブな喜びではないか、という疑問もついてまわります。
皆が好んで語る「旅先で普通の生活を経験したい」がローカルの不動産市場を圧迫し、飲食店の価格相場をあげているのが「ジェントリフィケーション」として社会問題化し、それがテーマパークのようだとさえ思われている現状は皮肉としか言いようがありません。ローカルの困惑に目を向けず、旅行者はローカルを楽しめるものでしょうか。
一層のこと、ローカルに浮遊するエアポケットのような存在の5つ星ホテル滞在を満喫した方がよっぽど正直ではないかとも考えます。究極の新ラグジュアリー文脈のローカル滞在は、ザイラーのように仕事を媒介することではないかとも思えます。同時に、仕事そのものも再考すべきかもしれないですが。
前澤さん、この自家撞着している「ローカルに密着したラグジュアリーな旅」をどう考えますか?


