古いタイプのラグジュアリーは5つ星以上のホテルに代表され、新しいタイプのラグジュアリーはエアビーのような民泊が選択される。そう思われがちです。
5つ星以上のホテルは要素分解したサービスの種類を積み上げた場と見なされ、民泊は計算では至らぬ経験ができる場と考えられています。体験値としては後者に分があると思われるのです。そして、よりローカル密着型の経験ができる、と。
欧州人たちとインバウンド客で賑わう京都の街を歩いていると、次のような台詞を聞きます。
「このような観光客相手にできたテーマパーク的商店街にはうんざりする」
祇園商店街や錦市場には外国人観光客が溢れています。こちらとしても少々ため息が出ざるを得ない状況ですが、あの通りが「観光目的で作られた」と思われているところが誤解の極みです。そこで、ぼくは次のように伝えます。
「このような通りは、もともと地元民が日常生活の用を足すための場所だ。外国人観光客がそこにローカルの匂いを感じて集まるようになった。だからテーマパーク的な設計だと思うのは大きな勘違いだ」
昨年12月と今年5月に、実際にぼく自身が経験したエピソードです。外国人が押し寄せるからその要望に合わせる店も増えていますが、テーマパーク的とまで思われるのは意外です。日本をそれなりに知る文化的レベルの高い人たちだから、人が集まるところに疑念を抱きやすいのでしょうか。彼らは「外国人のできるだけ少ないところ」を求めています。
「あそこに行ったら、誰も日本人(東洋人)がいなかった!」と喜び自慢する日本の人も多いですから、どこの国の人でも願う風景なのでしょう。
それでは、そういう人たちを、多くの店が閉まっているシャッター街に案内して喜ぶのか? こちらのほうがリアルな日本の風景のはず。ですが、短い滞在期間中の観光の対象としてわざわざ寂しい風景を見たいと思うでしょうか。
「KODOKUSHI」を撮りたい
ここで、1人の友人を思い出しました。オーストリア人のフォトグラファー、グレゴール・ザイラーです。彼は人々が目をむけない場所にでかけて写真を撮ります。
ロシア帝国時代の逸話に由来する「ポチョムキン村」は、見せかけだけの張りぼての村です。政治的威信にためや戦争の策略の道具として、このような場所が世界各地にあります。ザイラーは各国の政府当局や軍部と交渉し、それらを撮り歩きました。また、同じように各国の軍部とかけあい、北極圏にある軍事施設も撮影しています。
その彼からパンデミック以前に頼まれたことがあります。日本の孤独死をテーマに写真を撮りたいから協力して欲しい、と。彼はKODOKUSHIという言葉を使って意図を説明します。
孤独死は世界各地でテーマになっていますが、そのなかで特に日本が多いので、いわば「先端」の現場を撮りたいというのです。日本が高齢者社会だからだけではなく、孤独死が発生する背景を記録したいのだろうと想像しました。