過去には、ビートルズの奇妙な音楽実験からデヴィッド・リンチの映画まで、過激な商業芸術の例はもっとあった。しかし、企業がクリエイティブにおけるリスクを最小限に抑える「ベストプラクティス」を採用することで確実な利益を得られることを発見したため、こうした例はごく少数になっている。
企業がビッグデータをマイニングし、より多くの洞察を得る現社会においては自然なことでもある。コンテンツプラットフォーマーのアルゴリズムが発達し、人々はより平凡な人気コンテンツに誘導されるようになった。結局のところ、データは常に保守的な結果につながる。
文化の興奮は予期せぬ嗜好の変化から生まれるが、データは顧客がすでに好きなものに関する洞察しか提供できない。対照的に、真の芸術は私たちに次の美学を提供する。ところが、パブロ・ピカソやカート・コバーンのTシャツを散々着ていながらも、彼らがデータに基づいた決定をしてこなかったことには誰も気づかないようである。
軌道修正しなければ、誰もが損をする
しかし、停滞は制作側だけの問題ではない。20世紀において前衛芸術が価値あるものであったのは、高いステイタス価値があったからである。「文化的資本」、つまり難解な絵画や音楽を解釈する方法を知っていることで、より良い待遇を得ることができた。これが前衛芸術の価値を高めてきたが、文化の民主化がそれを阻んでいる。今日でも、急進的で新しいビジョンを夢見る若い芸術家はいるが、彼らは先人たちほどのステイタスを得ていない。
芸術からエリート主義を根絶するという崇高な意図によって、商業市場は確かに若いアーティストに新しい収入源を提供してきた。しかし、現在の文化の状態は、20世紀の急進的な芸術に寄生しているように感じられる。現在のエコシステムで真の芸術を奨励しなければ、文化はアイデアを使い果たし、最終的には商業も抑制されるだろう。
芸術と商業の間の境界線は、究極の目的のひとつだった。芸術は人間の心を変えることを望み、商業は利益を求める。実際、人間は純粋な金銭の追求以外の価値を求めるようにできている。創造的で工芸志向のブランドが常にトップに君臨し続けているのはそのためだ。個人であれ企業であれ、すべてを市場の論理に左右させてはいけない。軌道修正しなければ、誰もが損をすることになる。人間の創造性を育み、文化の「空白」を埋めなければならない。
デーヴィッド・マークス◎文筆家。アメリカ南部出身。ハーバード大学東洋学部と慶應義塾大学商学研究科修士課程卒。グーグルでアジア太平洋広報シニアディレクターとして13年間従事。『AMETORA(アメトラ)』と『STATUS AND CULTURE』を出版。現在HUMAN MADE社外取締役、NOT A HOTEL執行役員。


