アートとビジネスで生まれた「文化の空白」

デーヴィッド・マークス|文筆家

デーヴィッド・マークス|文筆家

議論の尽きない文化の話に「ステイタス」という視点を持ち込んだ『STATUS AND CULTURE』の著者デーヴィッド・マークス。 昨秋のイベントで、文化のために「お金をダサくできるか」という問いかけをした彼が、商業がいきすぎるカルチャーシーンに警鐘を鳴らす。 


21世紀の最初の25年間で、「アート」は極めて身近で、どこにでもあるものになった。美術館が増え、大勢の観客が押し寄せている。

商業品も芸術表現の手段となった。ルイ・ヴィトンのバッグは村上隆や草間彌生、ドン ペリニヨンのラベルはジャン=ミシェル・バスキアの作品で彩られる。ユニクロのUTでは、ピカソやウォーホルなど多くの有名アーティストのTシャツが毎シーズン販売されている。

しかし、芸術がポップカルチャーに浸透するにつれ、批評家たちは「21世紀は文化停滞の時代だ」と不満を漏らしている。2023年、ニューヨーク・タイムズの批評家ジェイソン・ファラゴは、「印刷機の発明以来、文化にとって最も革新性、変革性、先駆性の低い世紀として歴史に残るであろう世紀のほぼ4分の1が過ぎた」と宣言した。

その証拠は明白だ。人気の映画はIPに基づく続編ばかりで、米国ではテイラー・スウィフトが音楽チャートを独占している。オンラインコンテンツクリエイターは「共感されるか」ばかりを気にしているようだ。私はこれをBLANK SPACE(空白)と呼んでいる。文化は娯楽であり、営利事業であり、政治であり、もはや「文化のため」につくられていない。

広がるアートと停滞する文化

なぜアートはどこにでもあるのに、アートは進歩しないのか。矛盾する現状は、「アート」と「文化」のより厳密な定義に立ち返れば納得がいく。民主主義の精神により、「アート」はあらゆる種類の感覚的な美的体験を説明するために拡張された。今では、ハイアートを大衆アートよりも優先することはタブーになった。

しかし、これは“アーティスト”たちの目的を誤解している。20世紀の前衛芸術家は、観る者を刺激するだけでなく、世界からの刺激を認識し、整理する新しい方法を伝えようとしていた。言い換えれば、アートは鑑賞者の知覚枠組みに挑戦するためにつくられていた。

それは暴力的かつ不穏であり、多くの人は最初は抵抗する。これが、前衛芸術が一握りの人々だけを対象とし、マス向けの大量生産品と対照をなしていた理由である。過激な美学は利益の最大化にはうまく機能しない。

現在、商業の場で芸術が受け入れられている理由は、20世紀の過激な芸術がもはや過激ではなくなったためである。我々は、すでにピカソやウォーホルの考えを吸収している。商業を重視するネオポップ・アーティストと企業の協業も増えている。社会により多くの「芸術」があるが、人間の心を新しい方法で刺激するような「前衛」の伝統に忠実なものはほとんどなくなっている。

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文=デーヴィッド・マークス

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