遠目には真っ白に見える絵画、天井から吊るされた小さなポンポン......内藤礼の作品は、見る側を試すように静かに佇む。そこには、見る側を受け入れる余白がある。
「私は人間や社会がこのようだからつくっている」という内藤に、創造について聞いた。
私は「自分で気がつく」経験を大切にしています。それは制作においても、出来上がった作品からでも、日々の出会いでも。自分にとって初めてのことは、どんなに小さなことでも私にとっては大きなこと。その経験は独自のもので人と比較できず、価値を測れないものです。
例えば、作品について考え、形にし、展示がプラン通りに進んでも、まだ完成ではありません。自分がその空間に立ち、人が訪れる光景まで含めて、まだどこに気づきがあるかわからない。結論を出さず、「顕れ」がどの時点でも起こるように、できるだけ自分を空っぽにしておきます。軸は確信をもって育てつつ、自分の考えもひとつにすぎないと疑い、心を透明に、開いておく。仮に完成はしても、完結することはないですね。完結したものには、人の居場所がないと感じます。
アートを前に「人間」に立ち返る
それを前にすると、何度でも始まりの地点に戻れる。そこからまたどこへでも行けると思わせてくれる作品。意味や情報を伝えてくるものではなく、人は本来自由である、主体は自分であると思い出させてくれるようなものが、私が必要とするもので、私にとって良い作品です。
誰でもない自分自身としてこの世界に生きていると感じさせてくれるような芸術体験は、人間だけができること。苦しみをもつ人間だからこそです。
作品をもつことで幸せになることもあるかもしれませんが、作品は一点ものだから手にできないこともある。その点、50年後でも100年後でも増刷でき、作家が書き読んだものをそのまま読むことができる本は素晴らしいですね。
あえて未完成のものをつくるようなことはないですが、人が受け取る以上、作品は誰かの心で生成します。そしてその受け取り方にも優劣はない。
作家自身にとっても見出していないものがそこには必ずあって、5年後、10年後に、また新たな何かを見出すかもしれない。大まかに言えば、20代と60代では「生」のとらえ方が違い、その時々にしか深く実感できないことがあります。その意味で、作家が自ら「説明できる」ものはそこまでの作品。それなら別の方法でも伝えることができます。
『color beginning/breath』シリーズは、日々、継続して描くことで、人は毎日同じでないことに気づかせてくれます。このシリーズはもともと「絵を描こうとしない」ことを自らに課し、紙に絵具を置き、色彩が顕れることを自分が驚けるか、という問いのもと始めたのですが、浮かび上がってくるものが動物や雲、木などの自然物に見え、どうしても天地を描きたいのだとわかった。
「地上の光景への憧憬」は人間の本性ではないかと気づき、風景を描くことを許しました。同時に、過去に無数の人々が風景を描いてきた理由がわかった気もします。



