アート

2025.06.15 16:00

作品は誰かの心で生成する。美術家・内藤礼が見つめる創造と社会

内藤礼「breath」展示風景 2025年 タカ・イシイギャラリー京橋(写真:高橋健治)

それでも、私のつくるものは、私を通した表現であって、「私が伝えたいこと」の表現ではなく、その境界を超えないようにと願います。つくり手の意図によって完結したものを受け取る楽しみもあると思いますが、私は、そうではないものを見つめたい。

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私と作品、つくる人と見る人、内と外、ふたつあるから間に生まれるものがあるし、ひとつになることもある。全体を見ること、自分にはわからないものだからこそ見つめること。今はそんな時間が減っているのかもしれません。

わからないことは不安でなく喜び

内藤礼「母型」2010年 豊島美術館(写真:鈴木研一)
内藤礼「母型」2010年 豊島美術館(写真:鈴木研一)

何歳になっても知らない世界がある。自分がこんな考え方をするのかと気づくことがある。豊島美術館の『母型』という作品では、ひとつの空間で全員が違う体験をします。私が感じている繊細な何かとはまた違うものを、少し離れたところで知らない誰かが感じている。一人ひとりに心があるという尊さをそのまま共有している。その光景を見たときに、愛としか言えない感情が生まれました。

私は40歳ぐらいまではひとりずつが体験する作品をつくっていたのですが、豊島美術館の少し前から数人が入れる空間をつくるようになり、私自身、作品よりも「この地上に人がいる光景」をみたいのではと思っているほどです。

これはアートの場特有かもしれません。例えば商店街を行く人は、目的をもって歩いている。駅にいる人もそう。一方、美術の場は、はっきりした目的はなく訪れ、自分が何を感じ、何を見出すのか、心を空っぽにして受け止めるような場です。最近の展覧会では作品よりも“写真を撮っている人”が目に入ってしまうのが残念です。撮影は制限するほうがより人を大切にすることではないでしょうか。

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現代アートのわかりにくさは、その体験価値が測れず、比較できないからでしょうか。自分にとって何であるか、それは答えと呼ばれているものとは別のもの。わからないことがあるのは、不安ではなくむしろ喜び。まっさらな私という「人間」に立ち返り、人にはその「外」があり、生にはその「外」があるというありのままの世界に身を置くこと。私は繰り返しそういう「はじまりの地点」に立とうとしています。

タカ・イシイギャラリー京橋で開催された内藤礼の個展「breath」の展示風景。会場には、天井から吊るされたこの緑のポンポンのように、注意しなければ見落としてしまいそうな小さな気づきがちりばめられていた。(photograph by Naoya Hatakeyama)
タカ・イシイギャラリー京橋で開催された内藤礼の個展「breath」の展示風景。会場には、天井から吊るされたこの緑のポンポンのように、注意しなければ見落としてしまいそうな小さな気づきがちりばめられていた。(photograph by Naoya Hatakeyama)

内藤礼◎美術家。1961年広島県生まれ、現在は東京を拠点に活動。1985年武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。近年の国内の主な個展に「うつしあう創造」金沢21世紀美術館(2020年)、「生まれておいで生きておいで」(東京国立博物館、2024年)など。

【特集】ART & BUSINESS | 創造を刺激する「余白」の価値
見え隠れする経済合理性の限界。脱却の糸口としてアートへの関心が高まるが、それも既存の物差しで測っては意味がない。より速く、無駄なく進む先に何があるのだろうか。むしろ「非合理」に向き合うことに可能性があるのではないだろうか。非合理とは、つくり手と受け手の間に解釈の「余白」があるものと考え、その価値を知るプレイヤーたちに話を聞いた。

文=鈴木奈央

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