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2025.06.03 14:05

長嶋茂雄「不滅」のリーダーシップ、なぜ人々はミスターに熱狂したか

Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images

引退と同時に巨人軍の監督に就任するものの、選手時代の華々しさとは対照的に、監督としての道のりは必ずしも平坦でなかった。就任1年目には球団史上初となる最下位に沈み、第1期監督時代(1975年~80年)に2度のリーグ優勝を果たしたものの、日本一には届かず、苦悩の時期も経験。長嶋茂雄解任劇によりファンの反発を招き、読売新聞、報知新聞ともその部数を大幅に減らした事実は、有名だ。我が家もその例に漏れず、80年から購読紙は朝日新聞に変わり、元に戻ることはなかった。長嶋さんのカリスマ性は常に話題の中心にあった。

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1993年、再び巨人の監督としてユニフォームに袖を通すと、長嶋フィーバーは復活。「メークドラマ」「メークミラクル」といった流行語に象徴されるよう、数々の奇跡的な逆転劇を演出し、ファンを熱狂の渦に巻き込んだ。特に1994年、最終戦で中日ドラゴンズと雌雄を決した「10.8決戦」を制してのリーグ優勝、そして日本一は、長嶋采配の真骨頂とも言われる。この試合、瞬間最大視聴率は67%、世帯視聴率48.8%。2023年、ワールドベースボールクラシック(WBC)において、大谷擁する侍ジャパンがアメリカ代表と相対した決勝戦の視聴率が42.4%。「10.8決戦」はこれをも抑え込み、いまだに球史における最高視聴率となっている(ビデオリサーチ調べ)。

2000年には王監督率いるダイエー・ホークス(当時)と日本シリーズ頂上決戦が実現、「ON」対決を制し日本一を成し遂げた。この後、2001年に勇退。監督として、選手として、常にファンを魅了し、球界をリードし続ける存在だった。またその指導のもと、後にニューヨーク・ヤンキースでワールドシリーズMVPに輝いた松井秀喜さんをはじめとする多くのスター選手を育てた。松井さんは現役時代一番の思い出について聞かれた際、「長嶋監督との素振り」と回答したほどだ。

永遠なれ、ミスタープロ野球

グラウンドを離れた後も、長嶋さんの野球への情熱、そして日本への貢献は続く。2003年にはアテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。アジア予選を見事に突破し、本大会での活躍が期待された。だが2004年3月、脳梗塞という予期せぬ病に倒れ、オリンピック本戦での指揮を断念。このニュースもまた、日本中に大きな衝撃と失意をもたらした。

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文=松永裕司

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