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2025.06.03 14:05

長嶋茂雄「不滅」のリーダーシップ、なぜ人々はミスターに熱狂したか

Photo by Koichi Kamoshida/Getty Images

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「ミスタープロ野球」の愛称で親しまれ、戦後の日本国民に夢と感動を与え続けた読売巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄さんが2025年6月3日、肺炎のため、89年の生涯に幕を閉じた。この報に接し、野球ファンのみならず、昭和を知る日本人は深い喪失感に包まれていることだろう。平成、令和世代には理解されにくいだろうが「長嶋茂雄」という存在は、単なる一人の偉大な野球選手、監督という枠を超え、戦後日本の成長と歩みを共にした「時代の太陽」であり、人々に希望と活力を与え続ける不世出の国民的英雄だった。

昨今、MLBにて大活躍を見せるロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が、奇しくもセコムのCMで若き日の長嶋さんと対戦。この共演が、その時代の国民的英雄が誰であったか、誰であるかを象徴しているとして過言ではないだろう。

ここでは長嶋さんの輝かしい球歴と、球界に留まらないその巨大な足跡を辿りながら、日本社会、経済、そして私たちの心に遺した「不滅」の精神と、その比類なきカリスマ性がもたらした影響について考察し、哀悼の意を表したい。

鮮烈なデビューと「ミスター」伝説の幕開け ― 時代の寵児の誕生

長嶋茂雄伝説は、プロ入り前、立教大学時代から始まった。1936年、千葉県に生を受けた長嶋さんは、佐倉第一高校(現・佐倉高校)を経て立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、その華のあるプレーと勝負強い打撃でスター街道を駆け上がり、1957年秋には、当時のリーグ記録を塗り替える通算8本塁打という金字塔を打ち立てた。今からは信じがたいことにこの頃、野球人気の中心は六大学野球であり、プロ野球はまだ「職業野球」と称された戦前のイメージを色濃く残していた。1946年創刊の『ベースボール・マガジン』では当時、六大学野球の結果の方が大きく取り上げられていたほどである。

長嶋さんは1958年、鳴り物入りで読売巨人軍に入団。当時の日本は、戦後の混乱期を抜け出し、高度経済成長へと向かう時代。人々は明るい未来とヒーローの登場を渇望していた。長嶋さんは、その期待に見事に応え、ルーキーイヤーから打点王、本塁打王の二冠に輝き、新人王を満票で獲得するという衝撃的なデビューを飾る。そのアグレッシブな走塁、華麗な守備、そして何よりもここ一番での勝負強さは、瞬く間に日本中の野球ファンを虜にした。この年、先の『ベースボール・マガジン』は長嶋デビューと時同じくし『週刊ベースボール』新装創刊したほどだ。

翌59年6月25日、後楽園球場で行われた阪神タイガース戦は、昭和天皇・皇后両陛下がご観戦される史上初の天覧試合。この歴史的な一戦、9回裏同点の場面でサヨナラホームランを放つという劇的な活躍は、球史に残る伝説として語り継がれると同時に、長嶋人気を不動のものとし、日本中に「長嶋フィーバー」を巻き起こした。それは、単なる野球ブームを超え、長嶋茂雄という個人が社会現象となるほどの熱狂を生み出した。この頃より、日本野球の中心は大学野球からプロ野球へと移行。これは長嶋さんが六大学人気をプロ野球へと橋渡ししたものと見て異論は出まい。

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文=松永裕司

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