開業前の神戸須磨シーワールドにとっては、勝俣の長年にわたる知見と経験値が必要だったのだ。シャチの日々の健康を守るには、キャリア豊富な人間の目と耳で観察するのが、いちばん安心できると考えたのであろう。
神戸須磨シーワールドは、鴨川シーワールドを運営する会社「グランビスタ ホテル&リゾート」によって運営されていることもあり、須磨のシャチの飼育担当者は、全員が一度は鴨川での勤務経験がある。シャチの生態や飼育を習熟したうえで、順次、須磨に配属されてきているのだ。
そのため、館長という要職にありながら勝俣も神戸出張を繰り返していた。その勝俣を多忙な日々から解放する方法をひらめいたのは、神戸須磨シーワールドで働くソニーPCLのスタッフだった。
飼育の雰囲気や空気感までを届ける
ソニーPCLは、シャチの生態をデジタル技術で学ぶ場と、シャチの映像を上映するホールの企画からコンテンツ制作までを任されていた。勝俣が最大で月4回も神戸まで出張していることを知ると、ソニーグループが開発している「テレプレゼンスシステム」の導入を彼に提案した。
このシステムでは、複数のカメラとマイク、大画面ディスプレイを組み合わせて、離れた空間をネット経由で繋ぐ。そして高精細の映像とクリアな音声による双方向通信で、リアルなコミュニケーションの場を提供する。
これによって、一般的なウェブ会議サービスでは伝わりにくい雰囲気や空気感までを届けることが可能になる。この仕組みをシャチ個体の遠隔観察に転用しようとする提案だったのだ。
一方で、シャチの呼吸音がキャッチできる無線マイク、さらに大水槽を上から俯瞰撮影できる固定カメラの追加設置をカスタマイズ。2画面の映像に加えて、シャチの間近で収録した音声系まで送信できるので、あたかも現地にいるような「体感」が得られるというわけだ。
ソニーPCLからの提案を受けた勝俣だが、肉眼と同じ精度で観察できるのか当初は疑心暗鬼だったという。しかし、今年2月に実証事業としてスタートすると、毎日のようにこのシステムを利用することになった。
勝俣に言わせると「シャチは発熱すると人間と同じく目が『うつろ』になる」という。そんな微妙な異変も、導入されたシステムでは捉えられるとされている。
この遠隔でのシステムの導入以来、毎日、須磨から鴨川の勝俣に映像を送っている金野は、昨年12月に鴨川シーワールドから神戸須磨シーワールドにシャチ部門の責任者として転勤となった人間だ。
シャチの知識も豊富で、若い頃には鴨川でシャチのパフォーマンスを勝俣と一緒に演じていたベテラン。シャチの健康観察も問題なくできるが、遠く離れた勝俣がダブルチェックしてくれるのは「とても心強い」と話す。
実を言うと、須磨にいるステラは、自然の海で生まれたシャチだ。北大西洋のアイスランド沖で捕獲され、勝俣が鴨川シーワールドに就職した翌年の1988年に日本にやってきた。当時の推定年齢は1歳から2歳だったが、そのあと鴨川でメス5頭を出産。いま須磨で一緒にいるランが4番目の娘にあたる。
遠隔とはいえ、新しい環境でステラと娘のランが元気にしているのを心配するのは、勝俣の純粋な親心からなのだ。そんな彼が最先端のテクノロジーを使って、愛する2頭を見守っているというのは、実にいまの時代を反映している。
神戸須磨シーワールドが導入したこのシステムは、希少な動物を抱える動物園や水族館の新しい飼育モデルとして、これからも注目を集めていくことになるだろう。
連載:地方発イノベーションの秘訣
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