なぜ政治と公的研究投資の相性は悪いのか
合理的に見れば公的な研究投資は極めて有益だが、政治上の難しさがある。その最大の理由はタイミングにある。フィールドハウスは「公共研究開発の恩恵がフルに実るのは選挙サイクルを2回ほど超えた後であり、現職の政治家にとって予算拡大のインセンティブになりにくい」と指摘している。彼とメルテンスの推定では、予算が増えた衝撃から生産性成長のピークが訪れるまでに約14年かかる。これは1期や2期の政権が「自分の成果」として訴えられるスパンを大幅に超えており、目先の予算を削って浮いた資金をほかに回すほうが政治的に得策に映る。
こうした政治的・財政的圧力の中で、米国が公的研究へのコミットメントを徐々に縮小してきたのは事実である。名目ベースでは研究開発支出は増え続けてきたが、GDPとの比率で見ると冷戦期のピークから大きく落ち込んでいる。特に非国防研究開発は、歴史的にイノベーション主導の経済成長を支えてきた存在であったが、その水準を回復できていない。一度予算が削減されると、削減の引き金となった危機を乗り越えても、GDP比で停滞するのが常だ。
短期的には、研究費を削減することは、予算を均衡させるための財政的に責任ある方法のように見えるかもしれない。しかし、それは幻想である。経済学者のクラウス・プレットナーとカタリナ・ヴェルナーは、教育、出生率、そして研究の恩恵が具体化するまでの時間を組み込んだマクロ経済モデルを開発し、基礎研究への公的投資の効果をよりよく理解しようとした。
彼らが言うように、問題は「基礎研究への公的投資を最適レベルに向けて引き上げることは、短期的にはGDPと福祉の成長率を低下させる。なぜなら、税金を引き上げ、経済の他の生産部門から資源を引き離さなければならないからだ」ということである。しかし、これらの投資は、長期的には相当な利益をもたらす。彼らの分析によれば、福祉を最大化するために必要な公的研究開発のレベルは、経済協力開発機構(OECD)諸国が通常支出している額よりもはるかに高くなる。この短期的な足かせが、政府、そして現在生きている有権者が、その長期的な見返りにもかかわらず科学への投資をなぜ過小評価するのかを説明するのに役立つと、彼らは主張している。
民間部門がその穴を埋めることができるだろうか。ありそうもない。企業はすべての利益を得ることができないため、基礎研究への投資を過小評価する。「知識のスピルオーバー(知識が元の開発者から他者に波及する現象)」は公共財であり、社会にとっては良いことだが、収益化は難しい。結果として、政府が介入しない限り、経済的に生産的なアイデアは未開拓のままとなるだろう。経験的にいえば、複数の研究結果によると、ドルあたりの影響力を比べたとき、公的研究開発投資は民間研究開発の約3倍も経済に貢献する可能性がある。
いずれにしろ現在は、科学の価値と政治が資金提供するものとの間に、繰り返されるミスマッチが生じているのだ。


