「未来の空港」はどのような姿をしているだろう。例えば、手続きはすべてAIによる顔認証、保安検査も瞬時に終了、列に並ぶことも誰と会話することもないまま搭乗口へ。そんな効率性と機能性に特化した空間だろうか。羽田空港で、技術革新の恩恵だけではなく、空港をもっと「人の感情」に寄り添ったこころ豊かになる空間にしようという取り組みが始まっている。羽田空港旅客ターミナルの建設管理・運営を行う日本空港ビルデングを中心とし、熱い想いを持ったさまざまな分野の企業と人が未来の羽田空港づくりに参画する研究開発拠点「terminal.0」のコンセプトと活動に迫る。
2018年、羽田空港に隣接した約5.9haという広大なエリアに商業とオフィスが交わる大規模複合施設を備えた「HANEDA INNOVATION CITY」の計画が本格化した。
モビリティやロボティクスをはじめとする先端産業と食や伝統などの文化産業が融合する新たな都市が始動した。その運営を担ううちの1社である日本空港ビルデング(以下、JAT)では、時を同じくして、日本各地の空港をデザインしている梓設計と、羽田空港の未来を見据えた新事業の検討が行われた。
コンセプトづくりのアクセルとなったのは、若い力だったと、当時を知る事業開発課課長の池田篤(写真左。以降、池田)は回顧する。
「これからの羽田空港はどうなっていくか。自分たちの仕事が空港の未来にどう結びつくのか。それを考えるとき、自部署だけでは視野が狭くなる。うちの海外空港チームとともに、空港設計を行う外部会社も加えた、若手メンバーによる勉強会がスタートしたのです」
勉強会は両社10人ずつ合計20人が参加し、月1回ペースで開かれた。さまざまな意見を出し合い、途中経過を役員に報告。だが、初回のフィードバックは好意的なものではなかった。
ゼロから空港を考える
「今あるものをパズルのようにただ動かすような考えはいらない」
10年先、20年先と10年単位の区切りで考えると、どうしても技術開発の進歩や社会的変化など外部要因を踏まえた既存空港の延長の姿しか描けない。そうではなく、そもそも「空港とはどのような場所なのか」から考えなければ、新しいものは生まれない。
つまりは、一度すべてを白紙に戻す必要がある。まさに0から再スタートし、参加者が意見やアイデアを自由に出し合うこと1年間。議事録を積み上げると、その厚さは10cmほどになった。
「空港は空の旅への憧れだけでなく、旅やビジネスの始まりと終わりの場所。出会いの喜びと別れの寂しさ、旅立ちへの緊張や高揚と帰国の安堵、さまざまな感情が入り混じる場所です。技術がどれだけ進化しても、お客様が持つ空港ならではの感情は変わらない。自動で便利なら良いのではなく、従業員も含め、感情こそが忘れてはいけない大事なことである。それが、我々が出した勉強会の着地点でした」(池田)
空港は、景色や音、においなど五感すべてで旅を感じるところだ。人々の感性を包み込むように演出する空間、サポートするスタッフのホスピタリティは、どうあったらよいのか。空港で過ごす時間をより快適で充実したものにしてもらうには、建物や施設、設備や機器、動線や案内はどうしたら良いのか。それらを実現するために何をするのか。ビジョンを描いて最終的にたどり着いた言葉が「エモーショナル」だった。
「こころが動く」コンセプトづくり
キーワードは絞られた。エモーショナルをどうコンセプトに落とし込むか、次の検討が始まった。
「以前、国際線ターミナルをつくったとき、日本の空の玄関口として『東京らしさ』をキーワードにしました。都会の革新性とか先端とかドライな印象はあるけれど、実は東京には人情味があって、おもてなしのこころがある、と。そのことを思い出しました」(池田)
JATでは、入社後、まず空港の店舗や警備などに現場配属される。お客さま目線で仕事にあたることを徹底的に叩き込まれる。しかし、現場を離れ、事務職や管理職になると、その目線をついつい忘れてしまう。もう一度現場に立ち返り、人のこころや感性に目を向け、おもてなしの気持ちや日本人ならではの繊細さを表現した、五感で感じてもらえる空港にしよう―こうして生まれたコンセプトが「人のこころを動かすために、空港が出来ることのすべて。」である。
若者たちが議論を繰り返し、自分たちの答えをひねり出していく姿を見守っていた事業開発課先任課長、倉富裕(写真右。以降、倉富)は言う。
「『一歩先の空港=こころが動く空港』は面白い議論だなと思いました。空港の利用者のターゲット層の観点から、中心となる若い世代を考えたときに、同年代が良いと思うものを具現化するということが、結果としてこころに響くものになるのだろう、と。我々の世代では、自分の子どもや孫が良いと思うサービスやプロダクトを生み出すことは難しい。だから、若い世代が自分たちと同年代のマーケットに対して響くものをつくるというサイクルを次の年代に引き継いでいくことは、会社としてとても重要なことなのです」(倉富)
目的とゴールを「便利さ」「先進性」に置くのではなく、「人のこころが動く」「人の心が動くのを邪魔しない」ことに置いた。ワクワクがより高まり、緊張はリラックスに変わり、別れの悲しみが癒やされる。人の気持ちに寄り添った空間を作ろうと決めた。こころが動くということは、未来になっても変わらない。その普遍的な部分に取り組むことが、お客さまが空港に足を運んでくださり、長い時間を快適に過ごしてくださることにつながる。それが結果的には会社にとっても、働くスタッフにとってもプラスにつながるはずだ。
かくして上層部は、若者へと空港の未来を委ねた。
「共創」の可能性にかける
「人のこころを動かすために、空港が出来ることのすべて。」というコンセプトを具現化するために、池田たちは思考を重ねた。
「こころを動かす」というソリューションはあるが、それをどのようにつくればよいのか。今まで自分たちはソリューションを導入する側であり、実際のサービスやプロダクトの制作はメーカーに依存してきた。しかし、白紙の状態から自分たちでつくり上げたコンセプトだからこそ、今までとは違い、生み出す段階から関わりたいという想いが強かった。
「今までは外部に委託して導入していましたが、実際使ってみると良い悪いが出てきてカスタマイズしていくことになる。こちらが描くイメージをうまく伝えられていなかったのです。それならば『こころが動くサービスとは何か』それをつくる側と導入する側が一緒に話し合うことによって、新たにカスタマイズされた、本当に必要なものが生まれるはずだ、と考えたのです」(池田)
そこで思いついた手段がコワーキングによる「共創」だった。
この壮大なコンセプト実現には、さまざまな強みを持つ多くの企業の力を借りる新たな取り組みの場が必要となるが、どのようにつくり出すのか。調べていくなかで出合ったのが、コワーキングスペース「point 0 marunouchi」を運営し、共創を推進するpoint0だった。視察した池田は、コワーキングによる共創のあり方を知り、「こういうことだ!」と深く感銘を受けた。
「point 0 marunouchiは、新たなものを導入するために何社かが一緒に議論を重ね、失敗が許される場所でした。トライアンドエラーを重ねる場所がなければ、新しいものは生まれない。彼らのやっていることは、『みんなで研究開発施設のようなものをつくりたい』という自分のイメージ通りだったのです」(池田)
できない理由を探すのではなく、できる方法を探してポジティブに実験実証を行えば、必ず新しい良いものが生まれる。そう想いを強めていった池田は、自社も実証実験や研究開発の場を備えたコワーキングスペース事業を導入することを決意。自社の関係者を次々にpoint 0に連れて行き、機能だけでなく雰囲気なども込みで、場所を体感してもらった。すると、関係者のこころも動いた。倉富は回想する。
「普通のシェアオフィス的なものをイメージして行きましたが、まったく違った。コミットして本気で取り組む人たちの集まりでした。本気度の高いいろいろな企業を巻き込めば、空港のために共創してくれ、羽田空港のクオリティに見合うものができるのではないか」(倉富)
倉富も導入説得側にまわった。話を聞いた経営陣も視察を通じて必要性を理解し、point 0からのサポートを受けての導入を承諾した。

terminal.0、誕生へ
コンセプト実現の共創に向けて、参画企業募集が始まった。
コワーキング事業は都心・オフィス街など人々が集まるエリアで成立するといわれる。天空橋駅から直結、羽田空港に隣接し、「ヒト」「コト」「モノ」が交わるイノベーションの拠点としてつくられたHANEDA INNOVATION CITYは、国内外への情報発信に優位な条件を備え、新たな体験や価値を創造・発信するのにもってこいの場所であった。
その理由として、第一に「連携・交流(コワーキング)」「実証実験(テストフィールド)」「発表(プレゼンテーション)」という3つの機能を整備していること。アイデアを出し、空港に近い場所で実証実験したものを、空港で事業化できるという、明確な出口戦略が確立している。これは参画を検討する企業に対して大きなアピールとなる。
第二は、類似した環境で繰り返し検証ができること。空港に新たなものを導入するには高いハードルがいくつもある。徹底した安全性の検証が必要となるからだ。しかし、空港をよく知る自分たちがつくった施設での検証はエビデンスとしての要件を十分に満たせるのだ。
このふたつの大きなメリットとともに、未来の羽田空港に向けた自分たちの熱量を伝えた。それに共感した企業が「仲間」として集まってくれた。
羽田空港に隣接した場所、まさにターミナル1、2の一歩手前にあるこの研究開発施設。お客様やスタッフが空港で感じる気持ちに着目し、研究開発に取り組む「0番目のターミナル」。「terminal.0」はこのようにして、誕生した。
動き出したアイデアと共創
未来の空港は、どんな姿をしているだろう。ターミナル内に導入された多種のモビリティによって、快適かつ最適な移動手段が提供され、自動制御の搬送ロボットに手荷物をドロップすれば、搭乗まで身軽に食事やショッピングを楽しめる。煩わしくストレスも多いチェックイン手続きや保安検査、入国審査は、心地よい香りや音に包まれた空間で、1ステップ顔認証で終了。お客さま一人ひとりに合わせた道案内や搭乗情報をスマホで提供し、乗り過ごしや搭乗口変更を心配することなく、ゆったりと過ごせる。
多くの標識が不要になり、自然やアートを楽しめる美しい空間へと変わったり、DXの活用により、スタッフの働き方も空港内にとどまらず、お客様を空港から町の文化へとつなぐ役割まで領域が広がり、仕事の質を高めながら、よりフレキシブルな働き方が浸透したり。仕事へのやりがいをより実感できるようになるかもしれない。お客様も働く人もともに豊かな時間を過ごせる空間―そんな空港の実現が現実のものになろうとしている。
「人のこころを動かすために、空港が出来ることのすべて。」。この実現のため、terminal.0では「保安検査」「空間デザイン」「空港DX」「先端技術」「未来空港」という5つの研究開発ユニットを組織し、共創に着手した。実際、空港での導入実現間近なプロジェクトも出てきている。
まず、感性に響くところでは「香り」。空港にはその国独特のにおいがある。そのにおいは印象に残り、再び嗅いだときに記憶が蘇る。日本らしい、人のこころを癒やすような安らぎの香りで空港を満たし、リラックスしてもらうとともに、人々のこころに羽田空港の印象をそっと残してもらうのだ。保安検査場ユニットの実証実験で盛んに議論されている。
そして、モビリティ。エレベーターが自動運転車椅子を感知して、自動でドアが開き上下移動ができるというもの。シンプルなことに聞こえるが、安全性を何よりも確実にしなければならない空港においては、車椅子の方が何もせずに自動で上下移動ができることにはかなり高い技術的なハードルがある。
しかし、これならば車椅子のお客さまも空港内での移動で遠慮や心配、気遣いをする必要なく、確実に目的の場所に移動できる。また、介添えの必要など心配することなく、自由に思いのままに過ごすことができるようになるだろう。
もうひとつ、複数人移動モビリテ ィのアイデアもある。荷物も人も乗せて移動できるこのモビリティは、従来の動く歩道と比べて利便性が高いだけでなく、よりアトラクション的要素もプラスされる。移動に時間がかかりがちな小さいお子さまを連れたご家族にも人気になるはずだ。このほか、terminal.0から生まれるアイデアはまだまだ尽きない。本誌には24年に生まれた実証実験のアイデアを一挙に収めている(P.32)「世の中は急速に変化していて、今新しいことは10年後には古くなる。でも今知見を貯めておけば、将来の役に立っていくだろうと。そういったものを共有できるのもterminal.0ならではの醍醐味だと思います」(倉富)
terminal.0では自分たちの取り組みを包み隠さず、オープンにしている。このように実際の空港に隣接した場所で、見える形で研究開発に取り組む姿は稀有だ。ここでは、失敗もひとつの成果として捉えて見せるのだという。評判は広まり、発足から1年足らずだが、今や国内にとどまらず、アジアや欧州をはじめ、世界中の空港から多くの視察者が訪れる場所にまで成長した。
若い世代が空港づくりを牽引
空港課題共有会、チームアップ、コンセプトづくり、研究開発、実証実験というステップを経て、現在、空港導入のフェーズにまで到達した。立ち上げからわずか1年でこれだけの進捗は、彼らの本気度の強い意思表示でもある。立ち上げから運営に携わっている宮内優花課長代理はこう印象を持っている。
「参画企業各社との会議では、自由な発想や意見が活発にでており、しかも、それを誰も否定することなく、実証実験の具体化にむけてベクトルをひとつにする動きがあると強く感じている。新たなアイデアにこころが動かされている。今後も各社の実証実験を実りあるものにしていきたい」(宮内)
事業開発課の主任を務める兼重悠一郎も自分たち若い世代のエネルギーを感じているという。
「同年代との会話でも『もっと、こうした方がよいね』という話になる。担当になって、羽田空港から新しいことを発信してトップでほかの空港を牽引する存在にならないと、という意識が高まった。僕らのような若い年代から何かつくっていきたいです」(兼重)
24年4月から事業開発課に配属された小坂尚哉は「ハート」というワードに惹かれたという。「こころに訴えていくということを聞いたとき、すごく腑に落ちた。『おもてなし』という言葉があるように、真心や繊細さは日本人の一番の武器。ハードもソフトも人のためのもの。だから『ハート』をキーワードに研究開発をすることに意義があると思う」(小坂)。小坂は開業後の海外視察で、シンガポールのチ ャンギ空港と韓国の仁川空港を見学したという。「どの空港もトレンドを早く取り入れていて、規模感やスピード感に圧倒されました」と語り、運営へのヒントにしているようだ。
JATは長期ビジョンで「To Be a World Best Airport」と定めている。「そのための『こころが動く空港』なのです。その実現のため、自分たちが知見を出すのだというプライドを持って仕事ができるメンバーが育ってきていますね」(倉富)
「参画企業の皆さんが持ち寄ってくださるエネルギーやモチベーションに感謝し、大切にしたい。そのためにも、『まずはterminal.0に1回相談を投げてみよう』と信頼される存在にならないと。つくる側がワクワクしないと、お客さまのこころは動かせないし、感性にも伝わらないですから」(小坂)。
開業1年でベースとなるterminal.0チームができた。人のこころを動かすために、運営チーム自ら感性を動かし、研究成果を全国、さらには世界の空港に展開する日々が、確かに始まった。
>>terminal.0 annual report 2024のダウンロードはこちらから
terminal.0(日本空港ビルデング)
https://www.tokyo-airport-bldg.co.jp/terminal0/
倉富 裕◎事業開発推進本部 事業開発部 事業開発課 先任課長
池田 篤◎事業開発推進本部 事業開発部 事業開発課 課長
宮内優花◎事業開発推進本部 事業開発部 事業開発課 課長代理
兼重悠一郎◎事業開発推進本部 事業開発部 事業開発課 主任
小坂尚哉◎◎事業開発推進本部 事業開発部 事業開発課
* 掲載内容は2024年度末のものです