「人間万事塞翁が馬」士農工商の廃止を「天恵」ととらえる
安川は少禄の下士の家に生まれ、養子に出された苦労人である。しかし、明治維新による廃藩置県と四民平等を、彼は「天恵」とポジティブにとらえた。そして事業で国家に天恵の恩を返そうという、壮大なビジョンを描いたのだ。彼は石炭販売業を皮切りに、炭鉱、紡績、電機、窯業と多角化。では、地方の一企業から財閥にどうやって成長させたのか。
要因のひとつとして「地域内外のネットワーキング力」を挙げるのは、東京大学の中村尚史教授である。中村教授は、著書『地方からの産業革命─日本における企業勃興の原動力』で、安川家の資本勘定表などの資料を分析し、企業勃興のメカニズムを解き明かしている。
安川は当初は資金調達に苦労したが、地元福岡の実業家から融資を受けただけでなく、「神戸の石炭商からの出資で炭鉱経営をスタートさせています。当時、彼は月の半分を関西や関東で情報収集やネットワークの構築に費やしていました。首相になる犬養毅とも親しくなり、一緒に大相撲を見に行っては酒を飲む関係になり、また、中央財閥とも結びつき、三菱からの資金調達に成功しています」。
中央財閥が安川を頼りにした理由もある。東京の大手が筑豊の炭鉱を買収しても「鉱夫は人材の流動性が高く、人事管理が難しい。また、地下の鉱脈は複雑で、中央の財閥企業が鉱山の買収をしようとしてもこうした鉱脈の情報を得るのは難しかった」と、中村教授は言う。一方で、ほかの地元鉱山が販売権を中央財閥に売却するなか、安川は自社で商社機能をつくり、自売方式を守った。
ほかにも、安川は鉄道に出資したり、工業教育の向上を目指して学校(のちの国立九州工業大学)を設立したりと、北九州が産業都市として発展していく礎をつくっている。これも「天恵」に報恩するビジョンを追い続けた結果だろう。晩年、中国事業での失敗を反省し、自身の人生は「人間万事塞翁が馬」のようなものと言い、子孫たちに参考にしてほしいと回顧録『撫松余韻』を書き残している。
安川らが活躍したのは「不確実性が高い時代」(中村教授)であり、社会課題の解決を目指すスタートアップが多く登場する現在と時代背景は重なるだろう。また、事業の多角化によって外的環境の激変を乗り越えるのだが、資本政策やマネジメントの近代化は多角化が向上させたといえる。こうして経営者の技量を成長させたことが、未来型の事業につながったのだろう。
多角化については、この特集で船井総研が提唱する「地域コングロマリット経営」を取り上げている。業種を増やす多角化とはやや異なり、少子高齢化の時代に適応する経営のあり方を紹介する。
安川敬一郎|1849年生まれ。筑豊の炭鉱御三家(麻生、貝島、安川)のひとつ。16歳で安川家の養子となる。長兄が切腹。三兄が佐賀の乱で戦死したため、学業を断念して事業を始めた。息子たちをペンシルベニア大学に進学させたり、日本に亡命した孫文の生活の面倒を見たりしている。また、本人も国会議員に。1934年没。


