アート

2025.05.13 12:30

バスキア親子3人の肖像画がNYで競売へ 予想落札額30億円以上

Photo by Selcuk Acar/Anadolu via Getty Images

その赤い線で描かれたフットボールのような形の内側には、右上の方に「D」と書かれている。その他の走り書きとは異なり、この文字ははっきりと書かれている。

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『Defacement』(写真左)Photo By DAVID BREWSTER/Star Tribune via Getty Images
『Defacement』(写真左)Photo By DAVID BREWSTER/Star Tribune via Getty Images

「D」が思い出させるのは、バスキアがキース・ヘリングのスタジオの壁に描いた、『The Death of Michael Stewart(マイケル・スチュワートの死)』としても知られる『Defacement』だ。そしてまた、ニューヨーク市地下鉄のD系統に言及している可能性もあるということだ。

アーティストとしてのバスキアの成長に、D系統は重要な意味を持っている。活動を始めたころ、バスキアはアル・ディアスとともに「SAMO:Same Old Shit(セイモ、いつもと同じくだらないこと、の意味)」を名乗り、特にD系統の車両に、風刺的な言葉を添えたグラフィティアートを描いていた。

また、1982年制作の『レオナルド・ダ・ヴィンチ グレイテスト・ヒッツ』(Leonardo da Vinci's Greatest Hits)などからもわかるとおり、線路はバスキアが繰り返し、モチーフとしているものだ。文字通りの意味でも、比喩的な意味でも、線路は「旅」を象徴するものとみられている。あるいはそれは、暗に奴隷制や搾取、人間の体を表しているものかもしれない。

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一方、線路は薬物の使用や同じサイクルから抜け出せないことへの恐怖を暗示している可能性もある。バスキアと母親のそばに描かれた楕円形は、2人を苦しめた精神的な問題との闘いを示唆しているのかもしれない。

母が育てた芸術的センス

バスキアが幼いころから、その芸術鑑賞力をはぐくんだのは、世界有数の美術館・博物館があるニューヨークで育つことの恩恵を理解していたマティルダだった。

一方、父親とバスキアの関係は複雑だった。経済的に家族を支える父ではあったものの、しつけが厳しかったジェラードに反発し、バスキアは17歳のときに親元を離れている。ただ、それでも父への愛情が消えることはなく、ジェラードに認められることを強く願い続けたとされている。

『ベビー・ブーム』は、バスキアにとっての「アナス・ミラビリス(奇跡の年)」と呼ばれる1982年に制作された。世界中の影響力あるコレクターたちが手に入れようと競い合う10作品のうち、7作品が生み出されたのはこの年だ。

また、『ベビー・ブーム』はこれまでにおよそ20回、展覧会に出品されている。最初に公開されたのは、完成した1982年。パンク文化の中心地だった当時のNYイースト・ヴィレッジにオープンしばかりだった伝説的なギャラリー、「FUNギャラリー」でバスキアが開いた個展で披露された。

作品のタイトルは、第2次世界大戦後、米国の人口が急増した時期(1946~64年ごろ)から取ったものだ(バスキアもこの時期にあたる1960年12月22日に生まれている)。現在の所有者が2001年に購入した後、『ベビー・ブーム』は同じコレクションに収蔵されていた。

forbes.com 原文

編集=木内涼子

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