つらい減塩生活を知るために自ら体験し5kgも体重を減らした、へこたれない研究者。使うだけで「塩味」を感じるそのスプーンで、すべての人に食事の楽しさを届ける。
2024年11月、キリンホールディングス(以下、キリン)の佐藤愛のもとにアメリカから一報が届いた。佐藤がリーダーとして開発した食器型デバイス「エレキソルト」が、「CESイノベーションアワード2025」デジタルヘルス部門、アクセシビリティ&エイジテック部門の2部門で選出され、ショーケースエリアで展示ができることになったのだ。
「CESやSXSWへの出展は長年の憧れ。試しにアワードに応募したら、2部門で賞をいただいて驚きました。もっとも、取れたらラッキー程度に考えていたので何の準備もしていなかった。1月頭の本番に向けて超特急で間に合わせました」
エレキソルトは、“電気味覚”を利用して食品の塩味やうま味を増強するデバイスだ。例えば減塩食をこのデバイスで食べれば、少ない塩分でも料理をおいしく食べられる。その機能が、減塩生活に物足りなさを感じている人の心をつかんだ。24年5月から数量限定で予約抽選販売しているが、予約枠は毎回すぐに埋まる人気ぶりで、24年末までに累計2650台が販売されている。
いったいどのようなメカニズムで塩味が増強されるのか。一般に耳なじみのない電気味覚だが、実は研究者の間でその存在は200年以上前から知られている。
「電気味覚にはふたつの側面があります。ひとつは、電気自体の味を感じること。アルミホイルをなめると微弱電流が発生して金属っぽい味がします。もうひとつは、電流の流し方で味わいをコントロールすること。食品の中に含まれる成分には、イオンと呼ばれる電気的な性質をもつものがあります。食品を介して電流を流すことで成分を動かし、味を増強したり抑制するのです」
エレキソルトの第1弾はスプーン型で、スプーンの柄とヘッドに電極がついている。スプーンにのせた食品を口に含めば人体を通して電気が食品や舌に流れていく。エレキソルト開発チームは、食品中の塩味成分を舌に引き寄せる電流波形を探索。個人差はあるものの、その波形で電流を流すことで減塩食でも塩味を強く感じられるようになる。
食と異分野のVR技術に着目
減塩生活者の多くが悩みを抱えている──。そのことを知ったのは偶然だった。佐藤はキリン入社後、炭酸ガスを含む氷など、新しい食品素材の研究開発をしていた。18年、新素材の安全性検証で大学病院を訪れたとき、医師が雑談で「患者さんが減塩生活をなかなか続けてくれない」とこぼしたのだ。
医師の話にハッとしたものの、すぐ研究に取りかかったわけではない。佐藤は、何事もまず自分で経験することを課している。減塩の加工食を食べたり、料理に使う塩を少なくしたりして、食塩一日6g未満の生活を始めた。
「最初は楽だと感じました。でも、次第に物足りなさが蓄積して食欲が減退。食事を抜くことが増えてきて、3カ月後には体重が5kg減りました。そこで心配した家族からストップがかかって脱落です。自分でやって実感したのは、人は単に栄養を摂取しているのではないということ。食事の楽しさが損なわれないかたちにしないと減塩生活は続かないとわかりました」