「また着られる」と思ったときにこそ、問われること
時代がヴィンテージや古着を肯定する空気をまとった今、「長年しまっていた服をまた着られる」と思う人が増えている。中には、十分すぎるほどに成熟した年齢に達した大人たちが、若いころに着ていた服をクローゼットから取り出し、そのままの感覚で身につけてしまう。
もちろん、自分を理解し、服を理解し、その上で今の自分の立ち位置や肉体の変化を受け止めながら、“今”の視点で取り入れることができる人はいる。しかしこれは本当に、ごく一部のファッショニスタであり、服を熟知した上級者に限られる。
大半は、何の工夫も撚りもなく、ただ「古着着ても大丈夫なんだって」くらいの感覚か、“懐かしさ”や“使い回し”のような感覚で着てしまっている。そしてそれが、“成長していない自分”や、“客観性のない自分”を無意識に外へとさらけ出す行為になっていることに気づいていない人を目にすることがある。
相応しくない新しい服を着ている人に対してであれば、可能な限りポジティブな方法で、改善方法を教えて差し上げられる、なぜならその服とそれを着ている人の付き合いや関係性は浅く、熟させてうまい着地点を見つける余地があるからだ。しかし、もともとその人が持っていて、しかも着ていないにしても長年捨てずに持っていた服であれば、それ相当の思い入れがあるだろう。それに何かを言うかのような行為は、その人の人生を否定するのと重なってしまいそうで危険極まりない。反応や対応に困る、それが新しく手にした古着ではなく、自分の持っていた古い服を着ている人への正直な感想なのだ。
例えば、古着のジャケットなどを着ている時に、誰かから「それ、素敵ですね」と言われたとしよう。 あなたはそのコメントをどう受け取るだろうか? それをそのまま受け取ってはいけない。世の中の多くの“褒め言葉”は、ただの会話の導入である。それは日本だけではない、筆者が住むニューヨークも同様、 「こんにちは」「今日は暖かいですね」より少々相手との距離を近づけるパーソナルな部分に触れた、他愛のない挨拶代わりの言葉でしかないことがほとんどだ。
もし、それが本当に“評価”としての褒め言葉ならば、次の3つが揃っているはずだ:
1. 何人もの違う人から、何度も繰り返し褒められる
2. 褒める言葉に具体性がある
3. 服だけでなく、「着ているあなた自身」も褒められている
この3点が揃ってはじめて、それは“ポジティブなこととして相手に伝わっている”証拠と言える。


