それでも私がヴィンテージに慎重である理由
前述の通り筆者は個人的に、ヴィンテージ──特に“古着”という言葉で括られるものに対して懐疑的な立場にいる。どれだけコンディションが良かったとしても、「誰が着ていたかわからない」という感覚がどうしても拭えない。そして筆者のように感じている人は、実は少なくない。特にエグゼクティブやプロフェッショナルと呼ばれる、信用第一で、潔白さを清潔感を持って示すビジネス領域にいる人たちにこそ、多く存在している。
もちろん、使い捨ての価値観を否定し、古き良きものを大切にする姿勢には深く共感している。サステナブルであることも、現在そしてこれからの時代に欠かせない。ただ、たとえばビジネスの場で、ヴィンテージを身につけた人に出会ったとき。 もしもその人の装いが「小汚い」と感じられてしまえば、その瞬間に「この人は、そういう価値観の軸で選択をする人なのだ」と分類されてしまう。
そして、そうした印象がある限り、信頼を必要とするシーン──誰かに紹介したり、大切な場所に同席してもらうような機会は、静かに遠ざかっていく。 これは、意地悪でも偏見でもない。選ばれる、というのはそういうことだ。
もちろん、呼ばれたり紹介されたりすることがすべてではない。不要な誘いにエネルギーを割かずに済むのは、ある意味で効率的でもある。なぜなら「NO」と言うほうが、「YES」と言うよりも何百倍も神経を使うから。けれど、どちらを選ぶにせよ、装いとは姿勢であり、意思と覚悟の可視化であることに変わりはない。
ヴィンテージという“再構築”の可能性
ヴィンテージ服、どれだけコンディションが良くても、「新しさ」はない。「時代」というストーリーをまとうと言えば聞こえはいいが、マイナス面をいえば“古さ”を自らに加える選択でもある。
2025年現在の自分にとって、社会的立場や職業、そこから他者に期待される振る舞いや信頼感──それらすべてを統合して最適なプレゼンスを構築するには、いかにバランスをとるかが問われる。そのとき、ただ新しいものを身につけるよりも、ヴィンテージを取り入れることには時間も労力もかかる。それでもそのプロセスにこそ価値があると捉えられるのなら、ヴィンテージは非常に有用な選択肢となる。
かつては独特な人々の趣味やカルチャーだったヴィンテージが、いまや社会課題解決にも寄与する選択肢として認められるようになった。だからこそ、上手に付き合うのは素晴らしいことだ。
ただ、もう一度言いたい。ヴィンテージを選ぶということは、新しい服を選ぶ以上に覚悟が必要な行為である。自らのアピアランスに、気づかないうちにリスクを背負ってしまっている可能性が高いことも、理解しておかなければならない。
そしてそれでも、 「リスクを負ってもなお、この装いを通して伝えたいことがある」 「これが、自分にとって唯一無二の表現方法だ」 そう言えるのであれば、ヴィンテージは間違いなく“強い意思表示”になる。


