──「コメディアン」やその落札額はどんな意味をもつでしょうか。
服部:作品は彼らしいもので、お金はあのコンセプトに払われたもの。落札したのがクリプト起業家だったので、ビットコインが復活したのか、と。アートの売買には国や業種の勢いが如実に表れるのも面白いです。
保坂:森田浩彰さんの初期作品に「From Evian to Volvic」という、ミネラルウォーターを違うボトルに入れ替えるというものがあります。僕が20代のとき、4万円程で買おうか迷った作品なのですが、モノとしては数百円なのです。つまり「コンセプトにお金を払えるか」が試されている。「コメディアン」の9.6億円が美術史的に見て正しいかはさておき、落札者は名前も売れて、議論も巻き起こして良い広報になった。うまいですよね。
──作品の評価やアートマーケットの不可解さが人々の関心を惹き続けているという見方はできるでしょうか。
服部:アートは「なくても生きていけるもの」と見られたりしますが、太古の壁画が示すように、私は人間の必需品だと思っています。ということは、わかりにくいビジネスではない。学術的価値とマーケット価格が必ずしも一致しないことが問題でしょうか。
保坂:マスメディアが金額しか話題にせず、しかもそれが自分ではとうてい買えない価格だからアートが縁遠くなる。加えて、日本は作品を買う層が狭すぎるという問題もあります。ドイツでは大中小規模でアートフェアがあり、安い作品であろうと買う人を育てる環境になっています。また、作品自体は数万円から買えるのですが、家に人を呼ばなきゃ見せられない。外でも披露できる車や時計とはそこが違います。
服部:総じてアートはお金持ちのもので、お金持ちを嫌う構造も一因にありそうです。韓国のお金持ちは子どもを米国に留学させるので、そこで教養を身につけた新興富裕層が購入する傾向がありますが、日本は昔からのアート愛好家というお客様が多く、その層は厚いと思います。
──アートにおける「余白」については、どのようなご意見をおもちでしょうか。
保坂:芸術学の概念のひとつにヨーゼフ・ガントナーが提唱した「プレフィグラツィオン」というものがあります。最後の一手を観る側に感じさせる“未完成”の意味ですが、有名なのがセザンヌで、あえて塗り残すことで、その先どうしたかったかを想像させました。腕や頭部が壊れた部分的な彫像もそうですね。また、誰がモデルだったかわからない「モナリザ」のように、意味が決定できないという余白もある。昔はそういう謎めいた作品が多かったように思います。


