彼らは自分が生きてきた社会の規範を内面化しており、ジョシュのように異文化に学術的興味を持っていたとしても、尊重するような意識はない。この点は、ロンドンからホルガ村にやってきたサイモンとコニーのカップルも同様で、老人が崖から身投げする儀式を見て強い憤りを表明する。
彼らは基本的人権や自由、平等、民主主義といった近代的価値観に立って、”異教”の文化・習俗・生活習慣を守る人々を内心”下”に見ており、死ひとつとっても、その意味が自分たちの社会とは異なっていることは理解しようとしない。彼らにとって村は葬り去られるべき社会の異物でしかない。
重要なのは、犠牲になる者たちのほとんどが決して無垢な被害者ではなく、傲慢さや狡さ、冷笑的態度、自己中心性がしばしば描かれているという点だ。彼らは現代人の代表であり、まさに我々自身の姿として人物造形されていると言って良い。
つまり『ミッドサマー』も『ウィッカーマン』も、理解を超えたものに向き合った時、自分たちの正義や常識で対象の”未開性”や”野蛮さ”を断罪するような、”先進的”な人々の中にある驕りを描き出しているのだ。
最後に、二つの作品に描かれた”異教”の歴史的設定を見てみよう。
『ミッドサマー』の架空のホルガ村は、実は同じ名前の村がスウェーデン北部のヘルシングランドの山奥に存在し、その村の恐ろしい言い伝えを含んだ歌にアリ・アスター監督はヒントを得たと語っている。他にもさまざまな北欧神話や夏至祭、古代ルーン文字、バイキングの風習などが細かく織り込まれているが、設定としては古代から営々と土着宗教を信仰し、おそらくはキリスト教の啓蒙や迫害にも耐えて続いてきたコミューンであることがうかがわれる。
一方、『ウィッカーマン』のサマーアイル島で信じられているのは、古代ケルトの宗教を近代に甦らせたものである。サマーアイル卿の話によれば、1868年に彼の祖父がこの島を買い、貧しい村民に作物の作り方を教え、彼らを一つにまとめるために豊穣祈願の祭りを行い、性を謳歌する信仰体系を復興した。何度も形を変えて登場するウサギは多産の象徴だ。

1868年、つまり19世紀後半はさまざまな新興宗教が生まれてきた時代であり、1870年代にはイギリスで神智学協会が誕生している。ちなみに祭りの最後で少年たちが剣を組み合わせて作る、一般にはユダヤ民族のシンボルとして有名な六芒星は、神智学協会のマークにも使われている。
また、『ウィッカーマン』が公開された1973年当時は、60年代からのヒッピームーヴメントと連動してスピリチュアリズムの広がりがあり、伝統宗教に対抗する新興宗教の動きも活発化していた。ニールとサマーアイル卿の激しい口論はキリスト教と”異教”の対決であると共に、西洋の規範と脱規範の闘いでもある。そしてここでは前者が敗北している。
こうして見ると、『ミッドサマー』も『ウィッカーマン』も、”カルト的共同体”を必ずしも否定的に描いているわけではない。むしろそれを通して、我々の生きる世界や近代的価値観の限界を浮かび上がらせていると言えるのではないだろうか。
※<制作:A24×配給:ハピネットファントム・スタジオ作品>の特別企画として、2025年4月24日(木)に23分拡大した『ミッドサマー ディレクターズカット版』(R18+)がTOHOシネマズ日比谷とTOHOシネマズなんばで特別上映される。