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2025.04.06 15:00

建築家、モラトリアム7年の効能|藤本壮介×小山薫堂スペシャル対談(前編)

放送作家・脚本家の小山薫堂が経営する会員制ビストロ「blank」に、建築家の藤本壮介さんが訪れました。スペシャル対談第17回(前編)。

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小山薫堂(以下、小山建築家って、才能があっても出会う施主によっては世界的な活躍は望めないし、逆にどんなに大きなプロジェクトの依頼があっても、それに応えられなければキャリアが終わる。つまり、才能とチャンスの両輪が奇跡的に合致したときに、初めて藤本さんのような世界的建築家になれるんじゃないかと思うんです。

藤本壮介(以下、藤本恐縮です。

小山:そもそも藤本さんはなぜ建築家になろうと思ったのですか?

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藤本:父が医学生時代に油絵や彫刻などの創作活動をしていて、アート関係の蔵書があったんです。それで中2のときにアントニ・ガウディの建築写真の本を見て、衝撃を受けて。でも、その後は物理学に興味をもつようになり、大学でも物理学科を専攻するつもりでした。

小山:卒業したのは東京大学の工学部建築学科ですよね?

藤本:物理の初回の授業で、教授が何を言っているのかわからなくて(笑)。これはまったくレベルが違うなと思い、僕が入った理Iには建築学科もあったので、そちらに。2年次の最初の授業で、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエなど、いわゆる20世紀の近代建築家のことを教えてもらい、アインシュタインと同時代にこんな革命的な建築をつくった人がいたのかと、俄然興味が出て、いまに至ります。

小山:建築も、住宅から美術館のような公共建築まで幅広い。藤本さんは最初どの方面に興味をもったのですか?

藤本:実は卒業後、大学院にも進まず、建築設計事務所にも就職せずに、6、7年間、ブラブラしていたんですよ。

小山:え、ブラブラ?! 

藤本:親に仕送りしてもらって、東京で。建築について考える時間が欲しくて。

小山:いわゆる建築の哲学者みたいな?

藤本:よく言えば(笑)。でもさすがに親が見かねて、卒業して翌年には、父の営んでいる精神医療施設の増築をやれと。それで北海道に帰ったのですが、そのときに初めて自分はこんな豊かな自然環境に生まれ育ったんだな、と……。この雄大な自然環境と建築とがどのように共存できるのか、というテーマに目覚めました。

建築家の役割とは?

小山:増築の規模は大きかったのですか。

藤本:作業療法を行うオープンスペースの増築だったので、そこまでは。ただ、精神医療施設は個人のマインドスペースみたいなところでもありながら、やはり数十人が一緒に暮らしているわけですから同時にソーシャルな場でもある。なので、自分は特殊なものをつくっているというよりは、「非常に個人に根差したものでありながら、同時に社会にも根差しているという“建築の原型”に触れている」と解釈をしました。

小山:社会における建築家としての役割について考えるきっかけになった?

藤本:そうです。特に精神病院は刑務所的にもなりうる危険性があり、一方で場をうまくつくれると、個人と社会の関係性がよりよく機能し、かつ個人が解放される場所にもなりうるのではないかと考えました。

小山:そのときに提言した具体的なアイデアはあるのですか。

藤本:刑務所のメタファーと繋がりますが、ここに立ったら全部が見えるというのは、逆に暴力だなと感じたので、あえて死角をつくったんです。真ん中がドーナツ状の、歪んだリングになっている建物で、空間は繋がっているから気配は感じられるけど、直接は見えないところが必ずあるような。

小山:それまでは運営する側の視点でつくられていたけれど、藤本さんは入居する方々の気持ちを慮ったわけですね。その後は順調に?

藤本:2000年に青森県立美術館のコンペがあって。当時は実績がなくても、名前を伏せて審査するので選ばれる可能性があり、出したら、2等に選ばれました。審査員の伊東豊雄さんに、そのあとずっと引き上げていただきましたね。

小山:いまの若者って失敗を避けるし、成功にはスピードが命みたいなところがある。でも藤本さんは、6、7年のモラトリアムを経ても大成功した。その時期は、いまの自分にどのように結びついていますか。

藤本:建築って人間の生活とともに何千年も昔からあるので、 その根っこを考えないといけないと思っていたんです。例えば人間の身体と空間の関係とか、中と外とか。何のお金にもならないし、何かが約束されるわけでもなかったけれど、あのときずっと思考していたことが、いまの僕のプロジェクトの根幹にあるのは確かですね。

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写真=金 洋秀

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