藤吉:それは具体的にいうと、どういうシステムなんでしょうか。
阿部:例えば欧米では、経済システムにおける最上位の存在は「市場」です。アダム・スミスが『国富論』で唱えた通り、市場には”神の見えざる手”が働いており、個人がそれぞれに自己利益を追求すれば、結果的に社会全体の利益になるようバランスされるという考え方ですね。市場を構成する「民意」に絶対的な権威がある。
ところが日本経済においては、「市場」は必ずしも最上位の存在ではない。つまり民意より上の存在があることに、僕は日本に帰ってきてまず気づいたんです。
藤吉:なるほど。
阿部:少なくともバブル期においては、市場の上に大蔵省があって、大蔵省が市場をコントロールできるとみんな信じていたわけです。どうコントロールするかといえば、とにかく官がお金を投入すればいい、と。
アメリカにもそういうマネタリズム(貨幣供給量が景気や物価を決定するという理論)の議論はあったけど、それで市場をコントロールできるとまでは言ってないんです。けれど日本の”お上”、つまり日銀とか大蔵省は、お金を大量に投入することで、市場をコントロールできると思っているフシがある。
藤吉:「アベノミクス」もそうですね。官主導で経済を浮上させようとする試みでした。
阿部:ちょうど先日の日経のコラム(2025年2月4日付「『経済あっての財政』を巡る誤解」)で、〈積極財政で経済を成長させられるというのは、ケインズ経済学への誤解で日本の「失われた30年」をもたらしたからだ〉と書いてましたね。
ケインズは積極財政で景気回復することはできるが、経済成長をもたらすことはできないと明言している、と。じゃあ、何が経済成長をもたらすかといえば、シュンペーターは「イノベーションだ」と言ってますよね。
藤吉:彼の言うイノベーションは、いわゆる「新結合」ですよね。新発明ではなく、既存の発明をいくつか組み合わせることで新たな価値を生み出すというイメージ。
阿部:それは本来、日本人が最も得意とすることだったんです。ウォークマンとか、あるいはトヨタ生産方式もそうですね。そういうのが、僕の考えるソシオエコノミックモデルです。
ところが日本が本来得意とするそのモデルの働きを、”お上”がゼロ金利とかマイナス金利といった政策で阻害してきたと思うんです。緊急避難としては必要な政策ではあったかもしれませんが、日本の国力を考えると、あまりに長くやり過ぎたと思います。