その間には、シルヴィ・ルッソとジョーン・バエズとのトライアングルな恋愛模様も挟まれていくが、いわゆる愁嘆場のような激しい展開はない。とりわけディラン自身の心理描写などもことのほか排されており、物語はあくまで現実描写に重きを置いたドキュメンタリーのようなかたちで進行していく。

ニューボート・フォーク・フェスティパルの会場でシルヴィは決定的場面に出くわす ©2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
ただ、それらのエピソードを繋ぎ合わせていく音楽が素晴らしい。登場人物がほとんど自分で歌い演奏しているためか、作品のなかに完璧に溶け込んでいる。そういう意味では「名もなき者」は卓越した音楽映画ともなっている。
特に主演のティモシー・シャラメのパフォーマンスは、声といい所作といい完成度は高く、ほぼ完璧なところまでディランを演じている。その成り切り度は限りなく100パーセントに近いと言ってもいいかもしれない。
実は、当初からシャラメの出演は決まっており、コロナ禍で撮影が延期されため、彼は5年近くもの間、歌のトレーニングやギターとハーモニカの練習を重ね、ボブ・ディランの曲を完全に自分のものにしていったのだという。
シャラメが自ら歌う映画のサウンドドラックを、本物のディランと聴き比べてみても、どちらがどちらかがわからなくなることさえある。もちろん外見やちょっとした仕草なども見事に再現しており、残念ながら受賞は逃したが、アカデミー賞主演男優賞の有力候補に挙がっていたのもじゅうぶんに頷ける。

ボブ・ディランが憑依したかのような劇中での主演のティモシー・シャラメ ©2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved. 映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』は2 月28 日(金)より大ヒット上映中
実名ではない唯一の登場人物
ボブ・ディランは、2016年にミュージシャンとしては初めてのノーベル文学賞を受賞しているが、「名もなき者」の企画は、どうやらその前後から始まったと思われる。
長年にわたりディランのマネージメントを担当してきたジェフ・ローゼンが、2015年に刊行されたイライジャ・ウォルドの「Dylan Goes Electric!」(邦題『ボブ・ディラン 裏切りの夏』)を原作として、映画化を進めていたのだ。