ちょうどそのころ、会社側が募った希望退職に応募。30歳で同僚3人と3D開発のベンチャーを興した。「同級生にはさんざん言われましたよ。『おまえ、バカじゃないか』とね」。東大から官僚になり、退職後に天下って大企業の役員になるのが鉄板のシナリオだった時代。しかし、そんな昭和のサクセスストーリーの先に“坂の上の雲”が見える気がしなかった。プログラミングを基礎から学び「寝る間もなく勉強し、働き続けた」という小寺は、99年、社長でありながら自ら開発したCAD互換ソフトの部門を独立させてスピンアウトし、エリジオンを創業した。
フォードと契約を交わした03年には仏自動車大手ルノーのF1チームの公式サプライヤーに。短期間で設計変更を繰り返す火事場のような状況でエリジオンのソフトは100%近い互換率を示し、ルノーの技術陣を驚かす。見返りとして、「広告であればボディの片側だけで約5億円」というロゴ掲載を、両サイドに20年間、無償で提供された。
同年には、トヨタ生産システムのIT化を担った矢野裕司を常務(現在は社外)取締役に迎え、組織設計のノウハウを導入。生え抜きの現社長・相馬淳人は「創業当時は組織の線引き、働き方の規律に明確な定義がなかったが、世界標準の価値観が導入され、会社の文化が変わった」と振り返る。
「歌って踊れるエンジニアになれ」
強靭な組織力を備えた一方で、個々の技術者を尊重するマインドは今も大切にされる。6フロア、900坪のオフィスには広々とした個人スペースのほか、開発者同士が交流できる場所や機会も設けられ、ハッカソンも行われる。取材に訪れた日は、AIをテーマに個人やチームが発表をしていた。
社員の半数が東大・京大出身の知的エリート集団といえどもIQだけで勝負しているわけではない。小寺は若い社員たちに「歌って踊れるエンジニアになろう」と声をかけ、社員たちは顧客とのディスカッションに臨む。「営業をやれと言っているわけではない。お客様に寄り添い、ユーザー目線に徹しようということ」。ビジネスとして、クライアントの開発チームとR&Dを進め、のちに自社製品化し、パッケージソフトとして外販するケースも多い。開発後も継続的にサポートし、アップデートに対応する。
第二の柱に成長しつつあるInfiPoints(インフィポインツ)製品化のプロセスも同じ。端緒はリーマンショックの2008年ごろ。「現場の聴き取りで、たまたま大手のメーカー2社が同じことで困っていた」(相馬)という。内容は、当時、数千万円台から数百万円台に価格が下がった3Dスキャナーの活用。例えば、工場の製造ライン改変を行う際、関係者の視察、検討の機会をバーチャルで実現するのに3Dスキャナーはうってつけだが、撮影された画像データは桁違いの容量で、画面に表示して動かすことすらままならず、融通の利かない代物だった。
見る側のニーズに応じて使い勝手よく編集できるようにできないか──。開発すること約4年。データを縮小したり、画像の中の不要な要素を消したり、採寸もCADの作成も自在にできるソフト開発に成功、13年に標準ソフトとして外販にこぎ着けた。製品化と前後してVRゴーグルにも対応。パソコン上での操作からウェアラブル化を実現し、危険地域での作業のシミュレーションや、被災をリアルに学ぶ教育現場での活用などへとその用途を大幅に広げた。ほかにも、遺跡や遺構、文化財の現場保存、道路のメンテナンス、街づくりのシミュレーションなど「想定外のところから声がかかり、今後の展開に未知の可能性を秘めている」(相馬)という。