滋賀県米原市に本社工場を構えるダウン製品が人気のアウトドアブランド・ナンガ。高峰を示すその社名のように、3代目社長の横田智之は、これからどんな高い山を越えていくのか。
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伊吹山を望む自然豊かな滋賀県米原市。かつて近江真綿の布団産地として栄えたこの地で、アウトドアブランド「NANGA」は産声を上げた。ヒマラヤ山脈にそびえる世界9位の高峰、ナンガ・パルバット。屈指の難易度をもち「人食い山」と恐れられるこの山からとった社名には「どんな困難も乗り越えていく」という強い決意が込められている。3代目社長の横田智之は、先代が名付けたそんな決意を体現する経営者となった。
2001年に横田が家業に入社した当時、わずか1億円だった売り上げは、24年度には60億円を見込むまでに成長。布団や寝袋事業の製造から、似て非なるダウンジャケットへと主軸を転換し、大きく事業を拡大させた。高い縫製技術と「人の体を温める」というコアコンピタンスをぶらさず、アパレルというまったく違う分野でブランドを確立させている。
寝袋メーカーがアパレル事業へと乗り出したきっかけは、2009年に舞い込んだ、国内アパレルメーカーからのダウンジャケットのOEM依頼だった。寝袋は秋冬に売れるため、春夏は工場の閑散期。その時期にアパレルを手がけることで1年を通して工場を安定稼働させることができると考えた。
「ニッチな寝袋市場ではなく、目立つマーケットで勝負したいという思いもありました。あと、何より楽しそうやったんですよね(笑)」
しかし、寝具とアパレルはまったくの別物。設備も仕入先も工員もミシンもある。が、肝心のノウハウがなかった。「服飾の専門学校に行っていたわけでもない僕が、ゼロからダウンジャケットをつくるのは本当に大変でした」。当時、アパレル事業は横田と従業員2人の計3人だけ。仕様書の見方から資材の使い方、ボタンの打ち方、ダウンの封入方法まで、何もかもが手探りだった。
「ベテランの職人さんからは『こんなの縫えるわけない!』と文句を言われ、違う職人さんからは『できる!』と言われる。僕はその間に入って試行錯誤。彼らがいなければ、今のナンガはなかった」
最初のダウンジャケット製造では、4カ月かけても600着しかつくれず、納期は大幅に遅れ、値引き販売で赤字に。「親父にはめちゃくちゃ怒られました」と苦笑いするが、この経験が国内外で年間15万着を生産する体制の礎へとつながっていった。
どうやったら世の中に広まるか
知識と経験不足を痛感した横田は、3年ほどかけてアパレル製造の基礎を徹底的に学び直した。毎日20時間働き、8月から12月まで休みなしという、文字通り不眠不休の日々を過ごした。
2009年の社長就任時の売上高は3億円。横田は、ナンガのダウンジャケットを世に広めるための土台づくりに着手する。まずはブランドの知名度を上げるため、著名ブランドのOEMやダブルネーム(コラボ)商品の展開、大手セレクトショップとの商品開発などに力を注いだ。