ピート・シャドボルト
そうした若き研究者のひとりにピート・シャドボルトがいた。シャドボルトは子ども時代、いつも任天堂のゲームを欲しがっていた。彼は、サイクオンタムの本社があるカリフォルニア州パロアルトから電話取材に応じてこんなふうに語った。「ヒッピーだった両親からはIBMのパソコン486を与えられ、知り合いは『自分で苦労しながらビデオゲームのプログラムをつくってごらん』と、ごく初期のプログラミング言語であるターボ・パスカルのコピーをくれました」
17歳になるころには、ユーザーがコースでバイクを走らせることができるゲーム、フリー・ライダーHDを書き上げた。彼はオブライエンの指導の下、ブリストル大学で博士号を取得した。
「ジェレミー・オブライエンがちょうど研究に着手したときに彼の下に来ることができた僕は、とても幸運でした。やろうとしていたことは、実にシンプルでした。通信業界で使われているシリコンチップを別の目的に使う。つまり、レーザーパルスを使う代わりにフォトン1個を組み込むのです」
その後シャドボルトは、ロンドンに移ってルドルフの下でポスドクとして量子理論を研究した。
シリコンチップのなかで光をスイッチする技術であるシリコン・フォトニクスは、小型量子コンピュータをつくれるところまで来ていた。しかし、実現するには100万個、理想をいえば10億個のスイッチが必要だった。14年、シャドボルトと彼のチームは、ルドルフの博士課程の研究仲間だったメルセデス・ジメノ・セゴヴィアとともに、これに成功した。
「その論文がサイクオンタムの土台になりました。シドニー時代を含め、ずっと目指していた要件を満たしたと思える設計が完成したのです。いかにして半導体業界の知見を利用して量子コンピュータをつくるか、というものでした」(オブライエン)
ベンチャーキャピタルとの出合い
重要な展開となったのは、オブライエンが、サンフランシスコに本社を置くレッドポイント・ベンチャーズのジェフ・ブロディと知り合い、彼から、やはりシリコンバレーのベンチャーキャピタルであるプレイグラウンド・グローバルの共同創業者ピーター・バレットを紹介されたことだ。オーストラリア人のバレットがかつて共同創業者として立ち上げたビデオゲーム会社ロケット・サイエンス・ゲームズは、イーロン・マスクがシリコンバレーに来た当初に働いた会社のひとつだ。バレットにはまた、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツのそばで、13年近く働いた経験がある。「サイクオンタムのジェレミーとそのチームは、これまで一緒に働いたなかで最も頭のきれる人たちでした。いや、これは本当です」
バレットはシドニーで取材にそう答えた。
「サイクオンタムには、知性という意味でとんでもない馬力があります」
オブライエンは16年4月にバレットとブロディのふたりと手を組み、長期にわたる粘り強い取り組みを始めるために1300万ドルを調達した。そうして、サイクオンタムが誕生した。オブライエン、トンプソン、シャドボルトはすぐに創業者として名を連ねたが、ルドルフはまだ懐疑的だった。
「最初は創業者になるつもりはありませんでした。学術界で十分満足で、頭痛の種を抱え込みたくなかったからです」(ルドルフ)
だが、オブライエンはルドルフが断っても納得せず、折れるまで誘い続けた。プレイグラウンド・グローバルがインキュベーターとなってサイクオンタム立ち上げ時のオフィスが提供された。そこには昔ながらのアーケード・ゲーム機、バイクのコレクション、おいしい食事、人工観葉植物があった。


