テクノロジー

2025.02.09 13:30

10億ドルを調達、光量子コンピュータを目指す4人の天才の履歴書

T. Schneider / Shutterstock.com

マーク・トンプソン

光学エンジニアのマーク・トンプソンは、オブライエンに売り込みの電話をかけてきた。ブリストル大学でオブライエンが新たに立ち上げたチームが募集したハイレベルの仕事に応募を検討中だというのだ。物理学を専攻したトンプソンは、量子はまったくの素人だったが、光学業界での職務経験があり、フォトニクスの次なる一大テーマになるであろうものに注目していたのだ。日本の東芝のシリコン・フォトニクス研究のプログラムに18カ月間出向していたトンプソンは、こうしてブリストルに戻った。
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「量子物理学と量子光学をフォトニクス工学と合体させてまったく新しい分野をつくり出そうと思いついたのです」(トンプソン)

トンプソンは、「量子エンジニア」という仕事をつくりだしたのは自分たちだと自負している。

ネイチャー誌に最初の論文が掲載されてから5年後、オブライエンのチームは同誌に、研究室で重さ1t、幅3mのベンチを使って試してきたことをシリコンチップで再現した結果を発表した。

テリー・ルドルフ

テリー・ルドルフは、アフリカ南東部の内陸国マラウイで子ども時代を過ごした。両親はふたりとも教師だった。彼が12歳のとき、一家はオーストラリア・クイーンズランド州に移住。大学で物理学と数学を専攻した後、ルドルフはバックパックの旅に出た。物理学の道に進むことを決断したのは、彼の祖父が1930年代に「量子のもつれ」という現象を命名したノーベル賞受賞者であるオーストリア人物理学者エルヴィン・シュレーディンガーであることを知ってからだ。
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1995年、バックパッカーとしてカナダのトロントにやってきたルドルフは、そこで量子光学の博士課程に入ることにした。量子コンピューティングという概念が生まれた年だ。

「どの分野でも、いち早く参入すれば、まだ研究者は多くないので、たいして優秀でなくても比較的簡単に成果を上げることができるので」(ルドルフ)

そうして成果を上げたルドルフは、オーストリアのウィーン大学に移り、22年にノーベル物理学賞を受賞することになるアントン・ツァイリンガー博士の下でポスドクとして研究を続けた。そしてその後、電波天文学、トランジスタ、太陽電池が専門の米国の通信研究所であるベル研究所(現在はフィンランドの通信大手ノキアの傘下)に移った。

学究の世界に戻りたかったルドルフは、給料が下がることを承知で、03年にインペリアル・カレッジ・ロンドンに職を得た。国際的な学会で面識のあったオブライエンがブリストルに移ったのは、ちょうどそのころだ。オブライエンからの強い要請で、ルドルフは光量子コンピュータの研究にとりかかった。

「フォトンは、量子情報をエンコードする手法としては、大きく異なるものです。光は止まることがありません。常に動き回っています。高速で動くのが問題ですが、だからこそ素晴らしく量子コンピューティングが実行できるのです」(ルドルフ)
 
ルドルフはやがて、オブライエンの研究にかかわる人々と知り合いになった。

「彼は帝国を築きつつあり、それは巨大な規模でした。優秀な人材を呼び込み、研究資金を提供していました」(ルドルフ)
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文=マーク・ウィテカー 翻訳=フォーブス ジャパン編集部 編集=森 裕子

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