流れを断ち切るには、ジム・コーベットのような人物が必要だった
1907年、状況は限界に達していた。インド・ナイニタールの副総督は、平和を取り戻すため、人食い動物のハンターとして名を馳せていた鉄道職員のジム・コーベットに協力を要請した。ナイニタールのあるクマーウーン地方の丘陵地で生まれ育ったコーベットは、これまで人食いトラの捕獲に失敗してきた多くのハンターたちとは異なり、地元のジャングルを熟知していた。
チャンパーワット村で16歳の少女が殺された後、コーベットによる追跡が始まった。村民300人とともに少女の血痕をたどり、人食いトラの縄張りを明らかにした。
コーベットは、村民たちをバリケードのように配置し、叫び声と太鼓の音でトラを隠れ家から追い出した。そして地形を読み、トラの脱出経路を推測した。
人食いトラはついに姿を現し、村民に向かって突撃してきた。
コーベットの銃弾は当たったが、致命傷には至らず、人食いトラは決死の前進を続けた。銃弾を使い果たしたコーベットは、村民の散弾銃を借り、わずか6mの距離からとどめを刺した。
チャンパーワットの人食いトラの死によって恐怖の時代は終わったが、それは、人食い動物に対する私たちの理解が形成された瞬間でもあった。コーベットと村民たちはトラの死体を調べ、折れた犬歯がこのトラを人食いへと駆り立てたことを知った。
コーベットはその後も人食い動物の狩りを続けたが、その関心は次第に、狩りから自然保護へと移っていった。生息地の破壊と人間の侵入こそが人食い動物を生み出し、自分はその排除を依頼されているのだと認識していた。
その後の数十年にわたり、コーベットはインドで最も声高に野生生物保護を叫ぶ一人となった。コーベットの努力により、1936年にはインド初の国立公園が設立され、後にジム・コーベット国立公園と改称された。
チャンパーワットの人食いトラの遺産は、記録に残されているだけでなく、自然保護の継続的な取り組みとして生き続けている。人食いトラの伝説的な物語は、共生の必要性を浮き彫りにしている。その教訓は間違いなく、1世紀以上前よりも今のほうが大きな意味を持っている。
(forbes.com 原文)


