「カーター外交」の真価
大統領職を辞した後も、「元大統領」としてカーター氏は世界を駆け回り、38カ国で選挙を監視したり、和平交渉の仲介役を自ら買って出たりした。「カーター外交」と呼ばれたそれは、時折、当時の政権や母体であった民主党の議会への根回しもなく、唐突で独善的だと批判を受けることがあった。しかし、そのような批判など気にも留めず、とにかく「行ってくる」というのがカーター氏のスタイルだった。
相手を非難したり、議会への説明で膨大な時間を無駄にしたりするより、まず現地に行って、対立する相手、それぞれと握手をしてくるのがカーター外交だった。
そして、政治的に対立する相手のことを誹謗中傷しないという主義も貫いた。批判はしても、そこに常に相手へのリスペクトがあったことは、今日の醜い選挙キャンペーン(それが大統領選であっても州知事選、議員選であっても)を見ると、驚くほど新鮮な感じがする。
ユーチューブでも見られるが、彼が1976年の大統領選でジェラルド・フォード大統領とディベートをしたとき、相手のことを「高貴な対立候補」とお互いに呼び合う姿が見られた。民主党と共和党の境を超えて、2人は死ぬまで相手への敬意を示すことをやめなかった。
あるいは、南部の農業地帯の出身なだけあって、敬虔なキリスト教徒であるバックグラウンドのカーター氏だったが、政教分離を信念としていたので、自分の選挙の得票に貢献してくれた南部キリスト教福音派へも特別な恩典を与えなかったし、ホワイトハウスでのキリスト教イベントも禁じた。
さらに、石油ショックを通じて、カーター氏は環境対策の強化をあの1970年代に主張した、最初の政治家でもあり、今日の主要な環境法のほとんどは彼が提唱したものだ。エネルギー省をつくったのもカーター氏だ(教育省も同様)。
このようにカーター氏は、中東問題やイラン革命後の亡命者の受け入れ、政教分離、自分に票を入れてくれた母体に対しても特別扱いを拒み、環境保護がもたらしうる景気の減速――こういうあえて空気を読まないことで、自分の言葉と行脚で信念を貫き通した人物だったと言える。任期終了後に、ここまで世界を飛び回った元大統領はほかにいない。
ジョージア州アトランタにあるカーター氏の大統領博物館の隣には、「ザ・カーター・センター」という諸外国の紛争と人権保護を研究し、提唱する組織の本部がある。約200人の専属スタッフを抱え、12カ国以上にオフィスを置いている。このセンターは、カーター氏が大統領職を辞した翌年に立ち上がっている。
そういう意味で、カーター氏は、むしろ大統領職を辞してからアメリカ合衆国を代表する「大統領」になった人かもしれない。
ご冥福を念じたい。
連載:ラスベガス発 U.S.A.スプリット通信
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