松村氏は「今回、一般市民ではなく、軍隊を指揮命令する最高指導者がエコーチェンバー現象に陥っていたとしたら、これほど恐ろしいことはない」と語る。尹氏が不幸だったのは、極右系ユーチューブが流す、「デジタル空間」の極端な言説について、リアルな世界でも肯定してくれる側近たちがいたことだった。保守系与党・国民の力のなかには、ごく少数だが、「4月総選挙不正説」を唱える幹部もいる。政治家出身ではない尹氏には幅広い人材を起用する力がなく、こうした「とんでも言説」をいさめる側近がいなかったことも災いした。今回の非常戒厳は、当時国防相だった金龍顕氏が助言したという。尹大統領はきっと、「大多数の国民が、野党や北朝鮮にたぶらかされ、誤った主張をしている」と信じ込んだのだろう。
韓国の知人たちや日本の専門家は口をそろえ、今回の尹氏の行動を「自爆テロ」と呼ぶ。しかし、今回の事件は、「情報戦によって一国の指導者を誤った判断に陥らせることができるかもしれない」という誘惑を、主に戦後秩序の変更を狙う国々に与えてしまったかもしれない。
松村氏は最近著した論文「中国による対台湾ハイブリット戦争の脅威」(安全保障懇話会)で、中国が台湾統一を目指して行うであろう、様々なハイブリッド戦争の脅威について解説している。「香港型」のように、「一国二制度」が可能だと台湾の人に信じ込ませる方法や、テロなどを交えながら台湾の「統一派」を決起させる「内乱型」などを例示した。中国が、台湾指導部が市民に銃を向けるような情報工作をしないとも限らない。台湾与党・民主進歩党の幹部も「中国は従来、台湾の国民党などを対象に情報工作を仕掛け続けている」と語る。
尹錫悦大統領は「職業政治家」ではないという弱点もあった。日本政府の元幹部は「政治家は自分が絶対正しいとは思っていない。相手を貶めることも平気でやる。だから、相手が同じことをしても、激しく反発はするが、心のなかでは受け止めるだけの余裕がある」と語る。韓国で起きた事件が、他の自由民主主義国家ですぐに起きるとは考えないが、ハイブリッド戦争の重要な教訓として、私たちも学んでおく必要があるだろう。
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