1876年、米国インディアナポリス。南北戦争後、イーライリリー大佐が故郷で創業した薬局がイーライリリー・アンド・カンパニー(以下、リリー)の始まりだ。「研究開発こそ企業の魂」として信念を貫き続け、インスリン製剤やペニシリンの大量生産の確立に貢献し、製薬業界で存在感を放ってきた。
同社CEOのデイビッド・A・リックス(写真。以下、リックス)にリリーの強みを尋ねると、開口一番「研究開発であることは明確でしょう」と潔い。売上高の3割程度が研究開発費に充てられ、2023年度のグローバルでの投下額は93.1億ドルにもなる。
アンメット・ニーズに絶えず挑む
神戸市と認知症対策の協力も
「糖尿病や神経科学といった領域が我々の歴史ある開発領域ですが、新しい領域では、自己免疫疾患やがん、さらに遺伝子治療などの新興医薬品にも投資を広げています。また、肥満症によって起こる循環器疾患などの治療薬開発にも注力しており、各領域のリーダーとなることを目指しています」研究開発を後押しするのは、世界7カ国に構える自社の研究施設だ。自社の研究開発に重点を置きつつ、優れたノウハウやテクノロジ-をもつ小規模な企業との提携などを行うことで、スピーディな開発につなげている。 製薬業界では、未だ解決されていない「アンメット・ニーズ」に応えることが重要とされる。リリーはこの分野に注力し、「他社が投資していない、あるいは諦めた分野に挑戦したい」とリックスは語る。
「肥満症領域はその一例です。もちろん、開発には困難が伴うわけですが、私たちはこれまでの成功によりある程度のリソースを確保しており、大胆な投資をすることもできます。また、継続が違いを生み出すと考えています。このような我々の強みが戦略を支えている側面がありますね」
リリーが注力するほかの領域には、アルツハイマー病の治療薬開発がある。超高齢社会の日本では、病態の解明や治療方法の確立が喫緊の課題といえる。厚労省の推計では、2025年には65歳以上の高齢者の約5人に1人が認知症を発症している計算だ。
医療課題において先進国といえる日本は、リリーにとって主要な市場。米国に次いで世界2番目の製品供給国だからだ。日本でのビジネスポテンシャルを、リックスはこう説明した。
「日本でのビジネスは重要な機会ととらえています。我々のイノベーションのインパクトをより強くもたらすためには、医療制度だけでなく認知症にかかわるすべての人の意識や行動も変えていく必要がある」
地域と連携した取り組みとしては特に、神戸市に拠点を置くリリーの日本法人「日本イーライリリー」と神戸市との「認知症の人にやさしいまち」の推進に向けた協力がユニークだ。
2016年9月、神戸市で開催されたG7保健大臣会合は、「神戸宣言」を採択。神戸市は久元喜造市長のリーダーシップの下、「認知症の人にやさしいまち」の推進を決めた。取り組みの一環として、日本イーライリリーと神戸市、その外郭団体などと、認知症に関する市民への意識啓発に取り組むことなどを盛り込んだ協定を締結した。19年度からは神戸市が独自に市民に認知症の診断の早期受診を支援する「認知症神戸モデル」を展開。2段階の診断助成と事故救済のふたつの制度を柱とし、成果も目覚ましい。
第1段階の認知症の疑いの有無を診るための検診は市内約470の医療機関が協力し、24年度までに受診者数は約8万人にも上るという。アルツハイマー病と診断された人が、新たな治療薬などに速やかにアクセスできるよう、日本イーライリリーは神戸市にさらなる協力をしていきたいという。同様の取り組みが日本全体に広がることにも、期待がかかる。
創薬だけではない使命感
サイエンスで社会も変えていく
支援の枠組みが整えられている一方で、認知症の発症を不安に思う声が絶えないのが現状だ。認知症を発症した人への周囲からの否定的な意味付け、不当な扱いを意味する「スティグマ(偏見)」を取り除き、診断と治療へのアクセス向上を実現するヘルスケアシステムの構築が重要であるとして、日本イーライリリーの担当者は「認知症と認知症が与える日常生活への影響がコミュニティで適切に理解されるようになるには、行政や当事者団体との協力が大切だ」と話す。
国内での理解促進のため、官民学を巻き込んだヘルスケア・イノベーションフォーラムもこれまでに、さまざまなテーマで7回開催した。
リックスは、社会政策として、認知症当事者やその家族へのサポートは非常に大切だと強調する。
「恥ずかしいとか、後ろめたさがあると、それだけ原因となる病気に気づくのが遅れたり、医療の介入が遅れたりします。だからこそ、サイエンスが重要なのです。それによって、すべきことが明らかになります。まずひとつには、適切な医療介入を早期に行う。それによってご本人が独立して生活できる期間を長くできる可能性が高まります。さらには、人生の終盤をどうケアしていくかという観点もあるでしょう。予防できるのが望ましいわけですが、認知症の原因となる疾患にはまだ難しい側面がある。テクノロジーとサイエンスのさらなる発展が求められているのです」
日本でイノベーションを推進
「ドラッグロス・ドラッグラグ」の解消を
グローバルレベルでは、過去10年で20品目以上の新薬の開発に成功しているリリー。リックスは「記録的な数です。非常に明るい気持ちで将来を見据えているんですよ」と頬を緩ませる。今後成長のドライバーになるのが肥満症と心臓代謝疾患の領域で、数年でさらなる新薬の上市を目指しているという。臨床試験中のものも複数あり、がんや自己免疫領域でも研究開発を加速させていくのだと力を込める。「サイエンスは今、黄金時代にあるといわれています。リリーもその恩恵をしっかりと受け、今後も成長を続けていきます」。
世界的にイノベーションを加速させていくために、日本での展開はどうか。リックスは「日本には非常によく発達した医療制度があるし、イノベーションを評価する国でもある」と前置きしたうえで、課題とともに展望を語った。
「海外で使える薬が開発や承認されずに使えない『ドラッグロス・ドラッグラグ』の問題が日本ではより大きくなったように思えます。研究開発への投資が伸び悩み、投資家が積極的ではなくなっている。今後は、医薬品に関する政策全般の一貫性が求められると思います。海外の投資家を混乱させないためにも、安定性をもった薬価政策、創薬支援といった環境整備が重要です。その上で、我々は今後もイノベーションで日本に貢献したいと考えているのです」
日本イーライリリー
https://www.lilly.com/jp/
デイビッド・A・リックス◎イーライリリー・アンド・カンパニー会長兼最高経営責任者。1996年入社後、マーケティングやセールスでの管理職を経験。カナダ法人、中国法人などで社長を務め、2017年1月にCEO就任。同6月に会長に選出。