前述のギデンズの「純粋な関係性」とは、旧来の性別役割が明確な権力関係に基づく婚姻関係から民主的で対等な親密性への移行が念頭に置かれている。なぜ民主的で対等な親密性が重要であるかというと、先のゴドシーの議論のようにそれがひとつの幸福なかたちであるからだ。つまり、「経済的に裕福であるなら、妻は専業主婦でも良い」と「経済的な余裕がある/ない」という視座ではなく、「幸福である/ない」という視座で親密性をとらえるのである。
「幸福な親密性」が重要になるのは専業主婦家庭に限らない。共働きが多数派を占めている現在でも、家庭にはまるでかつての専業主婦がいるかのような分業体制になっている。すなわち、女性が仕事と家事・育児を担うという「兼業主婦」化している(注11)。例えば、6歳未満の子どもをもつ妻の家事・育児関連に費やす時間は7時間34分(1日当たり)だが、夫のそれは1時間23分で、他の先進国と比べるときわめて低水準にとどまっている(注12)。夫婦ともに正規雇用で働いている場合でも、夫と妻の家事・育児などの無償労働時間には極端な差がある(注13)。妻が正規雇用であれ、パートタイムなどの非正規雇用であれ、夫側の家事・育児時間にはほとんど変化がない。
先ほど性別役割分業に反対する者が多数派になってきたという意識の変化について述べたが、家事・育児時間などの行動面においては、いまだ性別役割分業が是正されているとは言い難い状況にある。家事・育児の時間が短い分、夫の労働時間は長く、家事・育児の時間が長い分、妻の労働時間は短い。誰かがやらなくてはならない、もっと大きく言えば誰かがやらなくては社会が存続していくことが難しくなる家事・育児というものを、現状では主に女性が担っている。女性側が仕事も家事・育児も両方を担うという偏りのある関係を、民主的で自由な「幸福な親密性」だとはとても言えない。
ただし、これは何も男性が悪いと言いたいわけではもちろんなく、ましてやここで男性を責めているわけでもない。女性の立場が極端に弱かった戦前の「家制度」的価値観や高度経済成長期の性別役割分業体制の悪影響が現在でも根深く残っているのだろう。現在、女性の賃金が男性と比べて低いのも、かつてあった結婚したら仕事を辞めること(「寿退社」)を前提にした「女性職」やその後の「一般職」のシステム(注14)、あるいは専業主婦の存在を想定する配偶者控除の制度などが、やはり現在でも確実に尾を引いている。
注10:クリステン・R・ゴドシー.『あなたのセックスが楽しくないのは資本主義のせいかもしれない』、河出書房新社(2018=2022)注11:落合恵美子「近代家族は終焉したか」、NHK放送文化研究所編『現代社会とメディア・家族・世代』、新曜社(2008)、注12:「6歳未満の子どもを持つ夫婦の家事・育児関連時間の国際比較(1日あたり)」(「男女共同参画白書 平成30年版」より)、注13:「夫婦の仕事時間、家事・育児関連時間(末子の年齢別)」(「男女共同参画白書 令和4年版」より)注14:北村文「ジェンダーを“する”─逸れる、盛る、かき乱すファッション」『ファッションで社会学する』、有斐閣(2017)