「売り上げを目的としない」とは、ブルネロ クチネリ社の経営理念である「人間の尊厳を守ること」を意味する。ブルーカラーとホワイトカラーの区別なくイタリアの国家契約規定を上回る世界水準を上回る給与を支給し、残業や働きすぎを否定し、従業員に家族と過ごす時間を推奨する。あるいは職人の技術を習得させるための工芸学校を運営し、奨学金で学費を免除したり、ソロメオ村や地域の文化や景観に投資する。それが彼の言う「人間主義的経営」の一端である。ベニオフとの会食の際、ブルネロ・クチネリはこう言っている。
「デジタル変革を導くうえで、哲学者や人類学者、歴史家、そして人間の進化や行動の研究をする学者が積極的にかかわるようになれば、とても魅力的な結果が得られると思います」
10代のころから古今東西の哲学書を読破してきたブルネロ・クチネリの話に共鳴したベニオフは、セールスフォースのイベントDreamforceに二度彼を招待し、公開インタビューとスピーチを依頼した。
こうして2010年代半ばにブルネロ・クチネリとシリコンバレーのテック起業家たちの交流が広がっていった。当時は、「GAFA」という言葉が席巻し始めたころだ。16年はGAFAの時価総額の合計が、米国株式市場の1割を超えようとしていた。このころ、ブルネロ・クチネリはテック起業家たちに知り合うと、こんな質問を投げかけている。
「あなたたちは、300年後に何を残すことができますか?」
アメリカ人は口を開くとすぐにファイナンスの話をしたがるが、地中海文化のイタリア人はカネの話を嫌う。目先の利益の話ばかりではなく、300年後のことをどう考えているのかという問いに即答できたのがアマゾンの創業者、ジェフ・ベゾスだった。
「すでに砂漠に永遠に時を刻み続ける時計を設置しました」。彼はそう答えた。
一方のブルネロ・クチネリはよくこう続けた。
「私は父親からこう言われましたよ。お前は墓場でいちばんの金持ちになりたいのかってね」
2019年時点で、ブルネロ クチネリ社の営業利益は日本円で105億円、売り上げは770億円を超えようとしていた。実は、「300年後」の本気度を示すこんな逸話がある。
OpenAIの創業メンバーがやってきた
日本人でかなり早い段階でブルネロ・クチネリを取材したのはおそらくミラノ在住のジャーナリスト、矢島みゆきだろう。矢島が振り返る。「1980年代のソロメオ村は本当に何もない農村で、同社もイタリアでは無名に近い存在でした。部屋から眼下に広がる緑色濃い農地を見ながら伺ったブルネロさんのお話は、とても興味深いものでした」