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2024.12.03 16:00

人の喜ぶ顔が好き 常識も業績も“逆転”させたメルスプラン、新発想をもたらす「夢中になる力」

現在さまざまな分野で利用されているサブスクリプションモデルだが、今から23年前、まだサブスクという言葉が一般的ではなかった時代にコンタクトレンズ業界でサブスクモデルを確立させたリーダーがいる。メニコンの取締役兼代表執行役会長 CEO、田中英成だ。


メニコンの定額制サービス「メルスプラン」の会員数は134万人で、売上高464億円(2024年3月期)。コロナ禍で店舗ビジネスは軒並みダメージを受けたが、医師の指示のもとコンタンクトレンズを定期的に受け取ることもできるメルスプランは会員数を維持し、売上高を逆に伸ばしている。導入時は関係者に理解されずに難産したビジネスモデルだったが、いまや市場に評価され、危機のときにも会社を支える屋台骨に成長している。

田中がコンタクトレンズ業界の未来に危機感を覚えたのは1990年代のことだった。田中は、メニコンの創業者、田中恭一の跡取り息子である。先代は戦時中、学徒動員された工場でものづくりを覚え、戦後は眼鏡店に就職。進駐軍のアメリカ人夫人からコンタクトレンズの存在を聞き、「アメリカ人がつくれたなら、きっと自分にもつくれるに違いない」と自分の目で実験しながら試行錯誤を重ね、日本初の角膜コンタクトレンズを完成させた。

職人としてコンタクトレンズをつくった父は、ビジネスとして成立させていくなかで医師と向き合うことに苦労していた。そんな姿を見てきた田中は「自分は医学からアプローチしよう」と医学部に進学。眼科医になってからはメニコン直営店併設のクリニックを開業し、ユーザーの目を診察していた。業界の問題に気づいたのはこのときだ。

「メニコンは眼科医の診察を経て、医療機器としていかに安全に使用してもらうかを考えて販売することにこだわってきました。一方、当時は価格破壊が始まっていて、利益確保を考えると接客に力を注げなくなることから、使い方の説明を疎かにする店も多かった。そんな店で購入した人が、間違った使い方をしてうちのクリニックに駆け込んでくることもありました。診察すると、洗っていないからレンズが真っ白になっている。価格破壊は誰も幸せにしないと思いました」

メニコンは価格競争の波には乗らなかった。しかし、それでは安売りするメーカーや小売店に顧客を奪われていく。このままだとうちの会社は5年もたない──。その危機感から考え抜いた先に生まれたのがメルスプランだった。

「ユーザーの目を守ると同時に経営改革を成し遂げるにはどうすればいいのか、ずっと考えていました。そんな中、ある会議で、『キャッシュフローが……』と誰かが言った時、『お金の流れをこれまでと逆にすればいいのではないか』と神の声が聞こえたように思えた」

従来、モノはメーカー→小売店→ユーザーに流れ、お金はその逆に、ユーザー→小売店→メーカーへと流れるという販売形式だった。しかし、これでは価格破壊で疲弊した小売店が経営不振に陥るとキャッシュフローが滞ってしまう。

メルスプランではユーザーがメニコンに定額料金を支払い、メニコンが小売店へ顧客サービスの対価を払う。これなら自社で価格をコントロールするので価格破壊から脱却でき、小売店は安売りに走らず顧客サービスの品質向上に努められる。その結果、ユーザーは高品質の商品とサービスを享受できる。メニコンも経営が安定し、新商品開発にも資本投下できる。まさに逆転の発想だ。



ただ、どれほど優れたアイデアも実現できなければ意味がない。田中もこの点では苦労した。優秀な若手に事業化を任せたものの、2年経っても遅々として進まなかった。

「社員の『検討しています』は『やっていない』、『難しい』は『やりたくない』という意味だと学びました(笑)。でも、たしかに取引先まで巻き込んだ大胆な経営改革について社員はリスクを取れない。やるなら強力なトップダウンが必須。そこで、父に『メルスプラン推進の責任を僕が取るから代表取締役を譲ってほしい』と直訴したら、『お前の好きにしろ』と」

急な改革に、社員は当初不安な表情を見せていた。しかし翌年にメルスプランをスタートしたところ、ユーザーや小売店からの評価が高く、その反応を見た社員も自信をつけた。01年まで5年連続で減収が続いていたが、メルスプラン3年目から増収に転じ、以降は現在まで増収が続いている。

少年時代から見せていたイノベーターの片鱗


発想力があっても、アイデアが斬新であるほど周囲との軋轢は大きくなりがちだ。誰もやらないことに目をつけて、壁を突破していくイノベーターとしての力を、いかにして磨いてきたのだろうか。

それを探ろうと幼少期について質問すると、田中は「決して出来が良いとは言えない子どもだった」と明かした。

「みんなと同じことができないから成績は良くなかったです。メルスプランを思いついた会議と同じく、授業中もずっと他のことばかり考えていました」

一方、自分が関心を持ったことについては集中力を発揮した。小中学生のころに凝ったのはオリジナルゲームだ。外では、近所の子どもたちを集めて鬼ごっこをした。ただ、普通のルールではない。足の速さなどでハンデをつけて、未就学児も同じように楽しめるようにした。

「みんなが喜ぶ顔を見るのが好きでしたね。あとから聞きましたが、友達のおかあさんからうちの親に『ヒデくんと遊ぶとなかなか家に帰ってこない。どうにかしてほしい』と苦情があったそうです(笑)」

家でもオリジナルの盤ゲームを作成。試験の前夜も一人二役で敵と味方に分かれて自作のゲームを楽しんだ。当時流行っていた深夜ラジオのDJに憧れて、自分で架空の番組をつくってテープに吹き込んだこともある。田中にとっては、自分がワクワクできるものが世界のすべてだった。

ただ、単なる夢想家でなかったことは、高校時代の活動からもわかる。男女共学だと勘違いして入学した先は、敷地が隣り合っているだけの男女別学。思春期の楽しみを奪われた田中は生徒会に入り、男女共学に向けた活動を展開した。

「共学の実現は無理でしたが、男女どちらも参加するイベントの企画をいくつもつくって先生と交渉しました。ちょうどゆとり教育への移行期で、土曜日に時間ができて先生たちも困っていた。企画書を持っていくと、けっこう喜ばれましたよ」

既存の常識にとらわれずに発想して、自ら道を切り拓く。イノベーターとしての片鱗は、ビジネスの世界に入る前から自然に身につけていたものだった。


世界でメニコンが評価される理由


1にメルス、2にメルス、3、4がなくて5にメルス──。田中は社長就任後、強烈なトップダウンでメルスプランの普及に力を入れた。ただ、実はそれと同時に、大きな方向転換となる製品の開発を指示している。同社が培ってきた技術を駆使して安全性・快適性で他社を凌ぐディスポーザブル(1日使い捨て)タイプとリプレースメント(定期交換)タイプのレンズだ。

「日本はもちろん、世界で勝負するためにもディスポーザブル、リプレースメントレンズの開発は避けて通れない道でした」

2年後には、メニコン初のリプレースメントタイプ「マンスウエア」を発売。交換頻度を1カ月にしたのは、「2週間や2カ月では交換を忘れがち。月暦が主流な日本人のライフスタイルに寄り添った」から。交換時期を忘れにくく、リプレースメントタイプでもユーザーの目を守りたいという思いは揺るがなかった。

そうした思いは、1dayタイプ「Magic」に実装した「スマートタッチ」という独自技術にも現れている。それまでの容器は、開けたときに眼球に触れる凹面(内面)が上になっていて、指で内面に触れざるを得なかった。滅菌した工場で製品をつくっても、ユーザーが装着時に内面をさわれば汚れるリスクがある。そこで逆に凸面を上にして収納し、例え1日使い捨てタイプであってもクリーンに装着できるようにしたのがスマートタッチだ。

「実は今よく売れている『1DAYメニコン プレミオ』ですが、最初に出てきた製品化計画書では、スマートタッチの発想がなかった。スマートタッチは生産技術的に極めて難しく、コストも高くなる。営業現場からは早期の市場導入が望まれていたことから、開発者はスピード優先でよかれと思って採用しなかったのですが、私は頑として譲らなかった。スマートタッチこそがエンドユーザーの安全性・快適性の最大化に繋がると考えた。結果的に発売は3年遅れました」

田中のスマートタッチへのこだわりは、眼科医としての矜持だけが理由ではない。田中の野心はスマートタッチを1日使い捨てタイプの世界のスタンダードにすることだった。

実はメニコンは70年代からヨーロッパを中心に海外展開を始めている。ただ、医療機器であるコンタクトレンズは国ごとに当局の認証を得る必要があった。アメリカでは長期間審査が通らなかった苦い経験もある。大きな市場があることはわかっていたが、なかなか壁は打ち破れず、メニコンの売上に占める海外比率も長らく10%台で推移していた。この状況を打破するには、海外競合がやらないことにあえて挑戦しなければならない。

「かつて恐竜は劇的な環境変化とともに絶滅した。その後、哺乳類が地上に現れた。大きな変化が起こった際にはマジョリティが絶滅し、マイノリティが生き延びた。地球の歴史です。次の時代を担うヒントがマイノリティの中にあるのかもしれない。マーケティングにおいても、私はマイノリティ、非常識の中にこそ戦略があると考えます」

メニコンの売上に占める海外比率は31.6%(24年3月期)と、今では3割を超えてきた。メルスプランなしで海外事業を成長させたのは、まさに田中が人と違うことを恐れずにトライし続けた結果かもしれない。

メニコンは23年に代表2人体制に移行。田中は代表執行役会長 CEOになり、現在は人材育成や地域活性化、文化振興活動を中心に担っている。今後は何をやりたいのか。そう問うと、田中は目を輝かせてこう答えた。

「僕はこれまで自分が夢中になれることばかりやってきました。怒られるかもしれないけど、儲けは二の次。60歳を過ぎて人生の残り時間が見えてきて、ますますその思いは強くなっています。今後もワクワクできることをやっていくのは変わらないでしょう。仮に人生の最期を迎えたときに、人の役に立つ善行が、気づかずに繰り返していた悪行を数で一つでも上回っていたら、幸せだったと感じるかもしれないですね」

少年時代から発揮していた、ワクワクしながら「夢中になる力」。新たな発想と変革をもたらしたその力は、まだ田中のなかで育まれ続けているようだ。

田中英成
愛知医科大学医学部卒業後、眼科医を経てメニコンへ入社。「メルスプラン」を生み出し40歳で社長に就任。成長の基盤をつくり東証・名証一部へ上場を果たす。プライベートでは脚本や作詞も手掛け、各方面で将来性のある若い音楽家や俳優の支援も行っている。

メニコン
本社/愛知県名古屋市中区葵三丁目21番19号
URL/https://www.menicon.co.jp/company/
従業員/1,728名

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