本質を見抜く眼、いわゆる「直観」に優れている。
これこそが、アントレプレナーが有する人間的資質のなかでも一等級のものと言っていいのではないだろうか。
自立心の強い人間として育ってきた
祖父がアルファ電子を創業した。1969年にデジタル時計の組み立て製造からスタートし、電子機器や医療機器へと領域を拡大していった。樽川千香子は、三姉妹の次女として育っている。幼いころから、「会社を継ぐのは長女」という空気感のなかで生きてきた。「自分は、自立心の強い子どもだったと思います。『自分の人生は自分で切り拓いていかなければ』という考えが幼児期には芽生えていましたから」
その結果、幼い時分から生き方のロールモデルとしてマザー・テレサに憧れを抱いた。中学生のときには介護の仕事を本気で目指すようになっていた。
人のために何かをしたい。誰かの役に立てる自分になることが、人生を輝かせる道——。
彼女は、自身の未来を直観していたのだ。
幼くして芽生えた自立心は、樽川の直観力を著しく向上させることに寄与してきた。幼いころから絶え間なく研いできた直観力が、現在のアントレプレナー樽川千香子を支えている。
アントレプレナー樽川千香子が目覚めた瞬間とは
高校卒業後は福祉を学べる短大に進学し、東京都内の特別養護老人ホームに就職した。しかし、過酷な労働環境をはじめとする現実に打ちのめされ、体調を崩し、故郷の福島に戻ってきた。「そこからは結婚と離婚、持病の悪化、東日本大震災などが次々と起こりました。再婚した夫との間に待望の長女が生まれた3カ月後に震災が発生しています。東京電力第一原発で事故があり、放射能という目に見えない恐怖と不安が福島を包み込むなかで、私は11年7月に父の会社を手伝っていた夫を残し、娘を連れて新潟県に自主避難しました」
その避難先で、今も樽川が恩師と呼んでいる人との出会いがあった。生活費を稼ぐためにパートタイムの仕事を探していた樽川を雇ってくれた金属加工業の社長・西村康である。
「西村さんは過去に父が取り上げられた雑誌の記事を読んでいて、同じ製造業であるアルファ電子のこと、厳しい状況下でも懸命に励んでいる父のことを知っていました。そのため、私には『何でも応援するよ』と。幼い子どもを一人で育てている私に対して勤務形態などで多大なる融通を利かせてくれました。急遽の休みや早退が多かったにも関わらず、私は十分に生活できる給料をいただいてきました」
樽川は、父の会社の現状についても西村に相談していた。
「震災後、アルファ電子の経営は順調とは言えないものでした。福島に残った夫は父の後継者として修行中だったのですが、後ろ向きな発言が多く、私は不安を感じていました。そうしたことを西村さんに話していたときに、決定的な言葉をかけられたのです。『あなたがいるじゃないか』と。それまでの私は、自分が会社を継ぐことなど微塵も考えていませんでした。しかし、西村さんは言ったのです。『樽川さんの血を継いでいるのは、あなたじゃないか』と——」
アントレプレナー樽川千香子が目を覚ます瞬間が、こうして訪れた。「私が会社を継ぐ」という意を決した樽川は、14年3月に福島へ帰郷した。
磨き込んできた直観で新規事業に挑む
当然ながら、帰郷してからの日々は苦闘の連続だった。14年に福島に戻った樽川が実際にアルファ電子に入社したのは翌年のことである。会社を継ぐに相応しい自分になるために、そして父に自分の決意を示すために、石にかじりつく思いで勉強に励んでいたからだ。合計で9個の資格を取得しながら、14年11月には持病の手術も受けた。医者からは時期尚早と助言されたが、経営者として必要な「健康」をいち早く手に入れる必要があった。しかし、入社してからも困難は続いた。「震災以降のアルファ電子には、福島の農作物と同じような風評被害が立ちはだかりました。電子機器製造の大口顧客が、放射能の影響を心配して取引を中止したのです。負債が積み重なり、退職届が立て続けに提出され、会社はまさに存亡の危機を迎えました。そして、遂に18年には銀行から「もう融資できない」と宣告されてしまったのです」
行き詰まった樽川の父はM&Aを視野に入れて会社存続の道を模索した。しかしこの方針に対し、樽川は「その選択肢はない。私は会社を継ぐために入社したのだし、社員を守っていきたい」と強く訴えたという。
「そこからは銀行からの再生支援の提案を受け入れつつ、過去10年間の事業見直しと今後10年間の事業計画書の作成を行い、収益改善を推し進める具体策に着手していきました。そして、さまざまな無理や歪みを是正していくことにより、結果として約1年で利益を出せる体制に立て直すことができました」
その立て直しを先導したのが、震災以降のさまざまな苦難のなかでもち前の直観力を磨き込んできた樽川だった。樽川は既存事業の立て直しと同時に、新規事業の立ち上げにも奔走していた。そこにも、彼女ならではの「直観」が生かされていた。
「私の娘には小麦アレルギーがあって、口に入れるものには常に気を配っていました。安心・安全な食品を探すことは、母としての私の使命でした。この私の使命、私の経験、私の想いを事業にも拡大することができるのではないかと考えたのです。恩師の西村さんに相談すると、佐渡市の米粉製造会社を紹介してくれました。その会社を見学した私は、『これだ』と直観したのです」
そこからの樽川は、グルテンフリー(小麦粉を使わない)の米粉麺の開発に邁進した。食品製造の知識も経験もない段階から手探りで試作を始めて、約1年の歳月をかけて米粉麺を完成させた。
「しかしながら、食品展示会に出品した際にお客さまがひと言、『まずい』とつぶやいたのです。もちろん、約1年をかけて食味や食感にこだわった米粉麺を完成させたつもりでした。次の段階、すなわち『最高においしい米粉麺』を生み出すために私が直観したのは、オープンイノベーションの道を探ることでした。20年10月からは食品化学の専門家で工学院大学の山田昌治先生と産学連携でおいしさを追求していきました」
この産学連携の過程において、樽川は数字による根拠を求めた。コシヒカリ、天のつぶ、ひとめぼれといった米の品種ごとに試験して粘度や食感などを数値化していった。讃岐うどんのコシの強さを目指し、麺の幅や弾力を徹底的に分析した。さらには麺を茹でた際にご飯の炊き上がりのような香りが漂うように、香りの質にもこだわった。
「22年に発売することができた米粉の麺『う米(まい)めん』の原材料は、米とデンプンのみです。食品添加物の防腐剤や増粘剤は一切使用していません。現在、使っている米は福島県産のコシヒカリになります。契約している米農家は、私が一軒一軒を訪ねて、自分の想いを伝えて、共感していただけた方ばかりです。各都道府県で一台しか納品しないという特別な製麺機械を導入し、米を砕いて米粉をつくるところから製麺までのすべてを自社で一貫して手がけています」
数値的に証明されているおいしさ。そして、グルテンフリーで食品添加物を含まないことによる安心と安全。今、これらの強みが評価された「う米めん」は売上を伸ばしている。小麦アレルギーに悩んでいた人々、あるいはその親からは、涙ながらのお礼の言葉が届いているという。樽川の想いが伝わったのだ。
強い想いが伝わっているのは、「う米めん」のファンだけではない。当時は専務だった樽川が必死になって新規事業に取り組んできた姿を、もっとも間近で見てきたのはアルファ電子の社員たちだ。新規事業に取り組む次期社長の姿は、既存事業に取り組む社員の奮起も促した。さまざまな改革が進んできた既存事業には大口の新規顧客が決まり、現在は明るい兆しが見えている。
そして、衆知を集めて経営に生かしていく
樽川は、23年3月にアルファ電子の代表取締役社長に就任した。会社を継ぐ決意をして帰郷した14年3月以来、樽川自身はどのような人間的進化・成長を遂げてきたのだろうか。「この10年間の月日を経て、私は落ち着いてしっかりと人の話を聞くようになりました。そして、自らの想いに従ってがむしゃらに突き進むだけでなく、『周囲の声を聞きながら機を見る』ということを学びました」
素直な心で実相を観て、社内の衆知を集めたうえで、なすべきときになすべきことに全力で取り組む。ことに15年にアルファ電子に入社してからの樽川は、「傾聴」という武器も手に入れた。生来の直観的勇気に加えて熟考的柔軟性も自身の強みとして磨いてきたのだ。この「直観的勇気と熟考的柔軟性のベストミックス」が近年のアントレプレナー樽川千香子の仕事を根底で支えている。
21年から社内のカルチャー改革の一環として取り組んできたのが、「組織の役割 〜責任と権限〜」と「役職者・スタッフの役割と使命」の明文化である。
「足かけ4年になりますね。すべての社員にヒアリングを重ねながら、みんなの考えを集約してつくっていきました。そして、ようやく24年度から人事考課ともリンクさせた理想的なかたちで動き出すことができています。現在は、社員の全員が『自分の属する部署の存在意義』や『自分自身のあり方』をつかむことができているのです」
事業を自分ごとと捉える社員一人ひとりの知恵を結集して経営を行うこと。衆知を集めて経営に生かすこと。それができれば、社業は順風を受けるだろう。経営の神様と称される松下幸之助も「最高の経営は衆知による経営である」という言葉を残している。
「一つひとつの部署、一人ひとりの役割が明確になったことで、以前と比べて事業を推し進めていくスピードが増したと感じています。また、部署をまたいで行う連携の緊密度が強化されたように思います。しかしながら、現状が完成版であるとは考えていません。これからも年度ごとに見直ししていきます。時流に沿って、また私たちの向かうべきところに則して、みんなでレベルアップを果たしていきたいと考えています」
AIが登場し、ビッグデータやアルゴリズムが威力を発揮するようになった現在において、人はどのような能力を発揮すべきだろうか。また、人と人はどのように共創していくべきだろうか。
樽川のように、人間ならではの「直観力」と「傾聴力」を生かしていく他はない。
企業においては職位の上下に関係なく胸襟を開いて正対し、お互いに敬意を払いながら、それぞれが自身の内で磨いてきた「直観力」と「傾聴力」を生かしてコミュニケーションを尽くしていく他はない。
樽川は今、真の衆知による全員経営を実践しようとしている。
「この流れの先にこそ、『最高の会社をつくり、みんなで幸せになろう!』というアルファ電子が掲げる経営理念の成就があるのだと信じています」
たるかわ・ちかこ◎福島県須賀川市生まれ。淑徳大短期大学部社会福祉学科卒。2年間、特別養護老人ホームで務めた後、福島に帰郷。東日本大震災を経て、2011年7月に新潟県に自主避難。14年3月に再び福島に帰郷した翌年にアルファ電子に入社。社長付の立場で経理や人事、総務を担当するところから始まり、18年からは会社の再生を先導。新規事業として立ち上げた米粉麺の製造も成功の軌道に乗せた。19年に専務、23年に社長に就任。
アルファ電子
本社/福島県岩瀬郡天栄村大字飯豊字向原60-2
URL/https://www.alpha-d.com
従業員/160人(2020年7月時点)
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