エミー賞は米国テレビ界のアカデミー賞とも称されている。この栄えある賞で、日本人史上初のキャスティング賞に輝いたのが川村恵だ。Forbes JAPAN Web編集長の谷本有香が、彼女のプロフェッショナリティの本義に迫る。
幼少期を過ごした実家のリビングの棚にはVHSテープが並んでいたという。
それが、キャスティング・ディレクター川村恵の原風景である。
映画やドラマこそ、自身がこの世界の不思議や不条理、あるいは希望について想いを馳せる起点になった。一家団欒のシンボルでもあった。友達にVHSテープを貸すことにより、喜ばれ、会話が弾み、絆が深まるのも感じていた。
今、川村は、自身が未知なる世界へと歩んでいく際の扉であり、生きる喜びを自分以外の誰かと交歓する手段でもあった映画やドラマに恩返しをする旅の途上にある。
導かれるようにして『SHOGUN 将軍』へ
谷本有香(以下、谷本):キャスティング・ディレクターの業務について教えてください。川村恵(以下、川村):キャスティング・ディレクターとは、映画やドラマのキャスティングが主な業務であり、監督やプロデューサーとともに、クリエイティブ面においてキャスティングの協議を行う仕事です。
谷本:キャスティング・プロデューサーよりもクリエイティブなお仕事なのですね!日本ではまだなじみのない職種かと思いますが、国内外での違いなどがあるのでしょうか?
川村:アメリカやヨーロッパではキャスティング・ディレクターという職種は確立し、重要視されています。例えば、欧米のキャスティング協会の中でも、賞が存在したりします。
谷本:川村さんは、どのような経緯でキャスティング・ディレクターになられたのでしょうか。
川村:こどものころから映画やドラマが好きで、若いころは年間数百本ほど観ていました。電通グループに入ってからは雑誌局でエンターテインメント雑誌も担当していましたので、芸能界や映画界との接点や知見はそのころから自然に築かれていたと思います。
大きな転換点は電通キャスティングアンドエンタテインメントに移り、広告以外のキャスティング領域の新規開拓をミッションとして働き始めた2003年です。
谷本:その時点からキャスティングの世界で仕事をするようになったのですね。海外作品に向けてのブレイクスルーの起点になったのは、どの仕事だったのでしょうか。
川村:17年に公開されたマーティン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンスー』ですね。この作品では、日本人俳優のキャスティングを担当しました。
谷本:日本では24年2月からディズニープラスの「スター」で配信されている『SHOGUN 将軍』は、真田広之さんがエミー賞の主演男優賞を受賞するなど、この秋以降も大きな話題になり続けています。陰謀と策略が渦巻く日本の戦国時代を描いたこの物語において、川村さんは出演者のキャスティングを担われたということですね。
川村:はい。私は、日本人俳優のキャスティングを担当しました。さまざまな役が『SHOGUN 将軍』には存在するのですが、プロデューサーや監督の意向を踏まえた上で、各キャラクターについて理解・解釈し、各役のオーディションにどんな方を呼ぶかを検討して、お声がけするところから、私の仕事が始まります。
遂にジグソーパズルが完成を迎えるとき
谷本:才能のある人間が努力を積み重ねる。その「才能と努力の掛け算をする作業」により、自分自身を高みに押し上げ続けてきた人だけがたどり着ける世界がある。俳優か、監督か、プロデューサーか、キャスティング・ディレクターかを問わず、あらゆる人間が自身の才能と努力の掛け算の日々をもち寄り、ようやく自身がたどり着けた世界観を他者のそれと掛け合わせることで熱い火花を散らしている——。これこそがエンターテインメントが生まれる現場で起きていることなのだと、私は推察しています。その火花の美しさや激しさやが、エンターテインメントのクオリティを左右しているのでしょう。そうして生まれた質の高い火花こそが刹那の感動となり、観客の心に火を点け、生涯消えない灯火にまでもなり得るのだと思います。
一瞬の火花を、一生の灯火へ——。
そのグロースポテンシャル(成長性・飛躍性)にこそ、エンターテインメントのダイナミズム(力強さ)があるのだと、私は思えてなりません。
川村:非常に納得できるたとえです。谷本さんは「火花」を想い描いているのですね。エンターテインメントのダイナミズムについて想いを馳せるときに、私の脳裏に浮かんでくるのは「ジグソーパズル」なんです。
谷本:おもしろいですね! そのジグソーパズル論を聞かせてください。
川村:今、世界には約82億人の人間がいますね。そのなかから才能や努力、運などのめぐり逢わせによって、まずはプロデューサーや監督をはじめとしたスタッフ陣が集まります。その数多くのスタッフが作品というパズルの外堀を埋めていきます。土台と言ってもいいでしょう。当然ながら、この土台の組み方によってパズルの仕上がりが変わります。
土台が組み上がり、脚本ができたら、その意図に沿ってひとつ一つのピース探しが始まります。それが、俳優のオーディションです。求めているピースがなかなか見つからないこともしばしばですが、『SHOGUN 将軍』においては、細川ガラシャをモデルにして描かれた戸田鞠子役に相応しい俳優を探し出すのがとても大変でした。
『SHOGUN 将軍』の戸田鞠子は、敬虔なキリシタンで英語を話すことができ、主君の虎永(真田広之)に信頼を寄せているキャラクターです。役の中では、日本に漂着した英国人航海士ジョン・ブラックソーンの通訳も務めます。そのため、劇中には日本語と英語のセリフが用意されることになっていました。
谷本:日本語と英語両方を話すことができるというだけでも、かなり難しいオーディションになりますね。
川村:そうなんです。戸田鞠子役が決まるまでに、実に足かけ3年以上を有しました。日本人の配役のなかで最後まで決まらずにいたのが戸田鞠子役だったのです。
1次のセルフテープオーディションからスタートして、コロナ禍でしたので2次以降の最終オーディションまではオンラインで行われました。アメリカのキャスティング・ディレクターと一緒に作業を進めていきました。
何度めかのアンナ・サワイさんのオーディションを終えたとき、私は「鞠子がそこにいた!」という強い感激を覚えるに至ったのです。まったく同じ想いをアメリカのキャスティング・ディレクターも抱いていたようです。遂に最後のピースが見つかった瞬間でした。
脚本という赤ちゃんが生まれ、その子がはじめてつかまり立ちする瞬間。そこがキャスティングの作業の始まりのように思います。遂に戸田鞠子役が見つかった瞬間は、『SHOGUN 将軍』の脚本がしっかりと立ち上がり、歩き始める瞬間でもありました。私にとってキャスティング・ディレクターという職業は、作品というこどもの最初の成長を助けて見守る乳母のような……そんなイメージです。
谷本:育て、見守る役目ということですね。川村さんがキャスティングの仕事を通じてもっとも喜びを感じる瞬間とは、どのようなときなのでしょうか。
川村:新しい才能を発見した時や、完成した作品を観たときです。これまでの歩みが間違いではなかったと確信する瞬間が最も喜びを感じます。
谷本:アメリカで多く見られるフリーランスのキャスティング・ディレクターや、スタジオのキャスティング部への所属ではなく、電通グループでキャスティング・ディレクターという肩書きを持ちながら世界のエンターテインメント業界で仕事をしていることのメリットやアドバンテージについては、どのようにお考えでしょうか。
川村:電通グループでは、広告、声優、映画、ドラマ、イベントなどさまざまなジャンルでキャスティングが必要になります。媒体やそのジャンルに合わせたキャスティングを経験でき、仕事に必要な多様な情報が得られることが魅力です。
また、個の個性が尊重され、活躍できる場が広くあることも魅力ですね。
プロフェッショナリティの発露について
谷本:オーディションとはすなわち、人間を観るということですよね。物理的に見るのみならず、見えないものを心の眼で観るということだと推察します。その人がどのような人間なのか——。どのような意欲や能力をもち、その人に何を期待できるか——。キャスティング・ディレクターに問われているのは、「目には見えない期待の妥当性を担保する能力」。そのように感じているのですが、いかがでしょうか。川村:まさにそのとおりです。「脚本から役をイメージする能力」が最も重要だと考えています。脚本を読んだときに私の頭のなかに浮かび上がる役のイメージこそが、仕事の起点です。脚本を読み、その役がどのようなものであるかを深く理解することが大切です。
谷本:キャスティング・ディレクターに求められるのは、深い理解力や想像力なのですね。川村さんの場合は、こどものころからたくさんの映画やドラマを観てきたことが、そのまま自然に「理解力や想像力を鍛えるトレーニング」にもなっていたのでしょう。
川村:オーディション時には、俳優としての能力だけではなく、その方の人間性まで観るようにしています。常に自分を磨き、努力を怠らず、真摯に作品に取り組める方がプロフェッショナルであると感じます。
谷本:プロフェッショナリティは、単に能力だけではなく誠実さに支えられているということですね。日々の努力をいとわない誠実さです。仕事と真摯に向き合うことを自分自身に促すインテグリティ(誠実さ・高潔さ)がなければ、プロフェッショナリティは育まれていかないということでしょう。
川村:キャスティング・ディレクターである私も、常に誠実でありたいと思っています。俳優は作品の顔になり、世の中の大きな流れの一端を担う存在になり得ます。その責任も意識しながら、これからも真摯に取り組んでいきます。
川村は、アカデミー賞でお馴染みの映画芸術アカデミー(AMPAS)および、エミー賞受賞によりテレビ芸術科学アカデミー(ATAS)のメンバーにも選出されている。また、アメリカのキャスティング協会(CSA)グローバル支部の理事にも就いている。これから先は自身の仕事の質を高めていくと同時に、キャスティングという仕事を広くこの世界に知ってもらうことが勤めであると認識している。
川村が映画で観る夢は、まだまだ終わらない。
dentsu Japan
https://www.group.dentsu.com/jp/
かわむら・けい◎山口大学を卒業後、アド電通東京(現・電通東日本)に入社。電通雑誌局でエンターテインメント系雑誌などを担当した後、電通キャスティングアンドエンタテインメントに移籍。国内および海外制作の映画やドラマにおける出演・吹替えなどのキャスティング業務を独力で開拓。2024年、『SHOGUN 将軍』でエミー賞のドラマシリーズ部門において日本人としてはじめてのキャスティング賞を受賞。