帯には「日本を呪縛する学歴の不条理」のキャッチコピー。そしてアマゾンの同書のページに掲載された紹介文は以下の通りだ。
「『東大こそは諸悪の根源!』——批判者たちの大義名分とは? 国家のエリート養成機関として設立された『東大』。最高学府の一極集中に対し、昂然と反旗を翻した教育者・思想家がいた。慶應義塾、早稲田、京大、一橋、同志社、法律学校や大正自由教育を源流とする私立大学、さらには労働運動家、右翼まで……彼らが掲げた『反・東大』の論理とは? 『学力』とは何かを問う異形の思想史」
さらに、同書61ページには驚くべきことに次のようにある(太字は編集部)。
「この時期の帝国大学の法律学科出身者は、無試験で判事・検事の候補生である司法官試補に任用され、同じく無試験で弁護士資格を得ることができた。現代風にいうと、法学部を卒業すれば司法試験を受けずに司法修習生になれた、ということになる。当時の弁護士には修習制度さえなかったので、卒業後すぐになれた。これは法律に定められた『特権』だった」
同書から、衆議院が同「特権」廃止法案を通過させた大正の初頭からどんな動きがあったのか、当時の私学の学生たちはどのように「特権」を排そうとしたのか、そして東大生はどう動いたのかが書かれた81〜82ページを以下、転載で紹介する。
参考>> 「日本を呪縛する学歴の不条理」、東大こそは諸悪の根源? 話題書を読む
「私立学校大刷新」論
大正の初頭、衆議院が「特権」廃止法案を通過させ、ついに政府提出法案にまで廃止が盛り込まれるようになっても、貴族院では異論を唱える者がいた。戸水と同じ七博士の一人、東京帝国大学名誉教授で貴族院議員の富井政章である。
富井は、一貫して一発試験のみの司法官試補採用や弁護士資格付与に抵抗した。「唯一度2000人も3000人も来た者に付いて、たった一度の試験で決めると云ふことになっては、どうも将来行政官司法官の人物の程度が低くなるだらうと思ふ」(第三一議会議事速記録)。
この主張の背後には、大挙して試験を受けにくる私学の学生への著しい不信感がある。富井は帝大法科教授と兼任で和仏法律学校の校長を務め、のち法政大学教頭に就任した。京都法政学校のち京都法政大学(現・立命館大学)の校長・学長も長く務め、私学の内情をよく知っている。
その富井は、私学の法学教育をまったく信用していない。社会が未熟であった時代には私学で「不完全」な教育を受けた人にも需要はあったが、いまや「学校の教育が余ほど完備して居なければ社会の需要に応ずるだけの人が出て来ない」時代となった。
その中にあって、私学の改革は進んでいない。たとえば、私学では官吏の出講を仰いで授業をまかなっているので、公務関係の休講が多い。帝大なら落第の成績でも私学では及第させる。富井は、こういういい加減な私学に通った者が予備試験の廃止や受験資格の撤廃を叫ぶのは当然のことだと指摘する(第30議会議事速記録)。
富井は、「特権」の廃止と同時に「私立学校大刷新」の必要性を説く。それは、各私大を「出来るだけは合併する」ことである。
貧弱で教育程度も低い私学を統合し、帝大法科に匹敵する一大学校を作ろうというアイディアは古くからあった。
1897年7月、当時の司法大臣清浦奎吾は東京の私立法律学校の校長らを官邸に集めて晩餐会を開き、中学校を卒業していない「全く普通学の力足らざる」者を入学させないことなどを求めると同時に、六校(現在の中央・明治・早稲田・法政・日大・専修)を合併して「一大法律学校」を設立するよう働きかけた。『東京朝日新聞』は「愈〻来る31年の学期より一大法律学校を設立する事に決定」と報じたが、この動きは頓挫している(1897年7月24日・8月11日)。