アマゾンの同書ページに掲載された紹介文は以下のとおりだ。
「『東大こそは諸悪の根源!』——批判者たちの大義名分とは? 国家のエリート養成機関として設立された『東大』。最高学府の一極集中に対し、昂然と反旗を翻した教育者・思想家がいた。慶應義塾、早稲田、京大、一橋、同志社、法律学校や大正自由教育を源流とする私立大学、さらには労働運動家、右翼まで……彼らが掲げた『反・東大』の論理とは? 『学力』とは何かを問う異形の思想史」。
そして帯には、「日本を呪縛する学歴の不条理」と記されている。
同書はいったいどんな本なのか。本書から、「ある京大法学部1年生の『仮面浪人で東大法学部に合格』およびその後の顛末」について書かれた125〜127ページを以下、転載でお届けする。
大正の「仮面浪人」事件
1921(大正10)年の春、京大法学部の1年生、杉之原舜一が東大法学部を受験し、見事合格した。現代風にいえば「仮面浪人」に成功したことになる。
今日では、さまざまな理由から「仮面浪人」となる大学生は大勢いるので、珍しい話に聞こえないかもしれない。だが杉之原の合格は、東大と京大、そして願書を取り次いだ第一高等学校の間のトラブルに発展し、新聞沙汰となった。京大法学部教授会が在校生の東大受験を問題視し、杉之原を放校処分にしてしまったからである。
杉之原は京大を辞めようとしていたわけだから、放校それ自体はさほど困らないように見える。問題は、京大が放校処分にした学生を、同じ帝国大学である東大が受け入れるわけにはいかないという点にあった。
京大の処分を受け、東大法学部は杉之原の入学を取り消した。杉之原は、京大から追い出され、東大から受け入れを拒絶されて行き場を失ってしまったのである。『読売新聞』は「虻蜂取らずになつたのみか学界からは永遠に死刑の宣告を受けたと云ふ奇怪極まる話」としてこの事件を取り上げた(6月8・14日)。
日本の左翼運動史において、杉之原舜一は多少知られた人物である。のちに民法学者となり、九州帝国大学法文学部の助教授に着任するも内紛で職を追われ(九大事件)、その後マルクス主義者となって非合法時代の日本共産党に入党した。家屋資金局の責任者として活動するも、やがて「スパイM」に売られて治安維持法違反で入獄する。戦後は学界に復帰して法政大学法学部長、北大法文学部教授を歴任した。北大在職中に再び共産党に入党、レッド・パージの中で大学を去り、参議院議員への立候補(落選)を経て、長く弁護士として活動した。その自伝のタイトル『波瀾萬丈』を地で行く生涯である。
杉之原は一高出身で、多くの同級生と同じように東大を目指していた。ところが病気(結核)のため卒業後に入試を受けられず、当時無試験で入学できた京大法学部に籍だけ置いて東京で療養することになった。1年後、「合格してから京大に退学の手続きをすればよい」という東大事務の言葉を信じて受験に挑み合格したわけだが、京大側は在校生の他校受験を許さず、放校処分にしたのである。
京大の鈴木信太郎学生監は、「他の学校の入学試験を受ける如き軽佻浮薄の行為は学生の本分に違背する」と処分理由を説明し、願書を取り次いだ一高、受験を許可した東大の責任を指摘した(前掲『読売新聞』)。
行き場を失った杉之原は、東大法学部教授の末弘厳太郎、吉野作造、そして京大法学部長に就任したばかりの佐々木惣一のところに押しかけ、助力を求めた。末弘も吉野も佐々木も同情的だった。末弘や佐々木はこの事件をきっかけに杉之原に目をかけるようになり、とくに末弘は杉之原が研究者として身を立てる際に親身に世話をした。