空母の歴史
ただ、歴史をひもとけば、今後起こりそうなことのヒントを見つけられるかもしれない。第一次世界大戦中、複葉機(上下に主翼が2枚以上ある航空機)は偵察任務には有用であることがわかったが、そのきゃしゃな機体を爆撃任務に使うことをまじめに検討した指揮官は少なかった。複葉機は大量の爆弾は運べず、目標上空まで到達するのに時間がかかり、悪天候では運用できず、また容易に撃墜され得るからだ(こうした欠点はすべてFPVドローンにも当てはまる)。
海戦では、航空機の使用は航続距離の短さから沿岸防御に限定されると考えられていた。外洋での戦闘は、戦艦同士が大砲で交戦する艦隊行動で引き続き決着がつくと想定されていた。
米海軍作戦部長のウィリアム・ベンソン提督は当時、「艦隊での航空機の用途は何ひとつ思いつかない」と述べ、「海軍に航空機は必要ない。航空機は騒がしいだけのものだ」と断じていた。
彼とまったく違う考えだったのが、米陸軍航空隊のウィリアム・ミッチェル准将だ。第一次大戦中、フランスで米外征軍の航空戦闘部隊を指揮したミッチェルは従来の常識にとらわれない人物で、世界は新たな航空戦の時代を迎えようとしているとみていた。1920年、ミッチェルは米議会で、陸軍航空隊は既存の、あるいは将来のどんな戦艦も沈めてみせると豪語し、海軍の提督たちを戦慄させた。
翌1921年7月、それを検証するための実験が行われ、陸軍航空隊の爆撃機は戦利品のドイツ海軍の軍艦「オストフリースラント」を標的に900kg爆弾を何発か投下し、撃沈した。
艦載機は少し前から運用されていたが、英国で1923年、航空機を多数搭載できるように設計した世界初の専用空母「ハーミーズ」が竣工した。以後、航空戦力は公海のどこにでも到達可能になる。空母の優位性が確立するまでには数十年を要したものの、ミッチェルのような先見の明ある軍事思想家には、すでに1920年代初頭時点で未来の戦争のかたちが見えていた。