強烈な感動を生み出すには?「共感狙い」ではなくヒューマニティ:『エアー3.0』著者寄稿

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つい先日のニュースで、読書離れが取り上げられていた。若い世代を中心にどんどん本が読まれなくなりつつあるという内容である。

この状況を解説して、とあるライターが「自分と関係のないと思われるものはすべてノイズとして排除する傾向が生まれつつある」と述べていた。確かにそうかもしれない。ただ、そこでコメントが終わってしまっていたのが面白くなかった。

なので、このような傾向に警鐘を鳴らす書物も挙げておこう。新井紀子の『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(2018年、東洋経済新報社)だ。数学者である著者は、「AIが社会に導入されるにともなって消滅する職業が発生することは確かだ」と警告する。

では、そんな時代をサバイブするためにはどんなスキルを身につけるべきか? これに対する著者の答えは「しっかり本を読んで理解できるようにする」という、身も蓋もないけれど、やはりそうだろうなと頷かされるものだった。

僕は時代の感性を信じない

さて、僕の学生時代をすごした80年代には(大昔だなあ)、「お勉強ブーム」というものがあって、難解な思想書がよく売れた。大学がレジャー産業になったと言われ、遊びほうけている学生がキャンパスに溢れる中、この不思議なブームは起きた。

特に難解だと言われながらもよく売れたのが、京都大学人文科学研究所助手だった浅田彰が書いた『構造と力』(1983年、勁草書房)である(去年ようやく文庫が出た)。本書の特徴は、序章はなんとか読めるが、本編に入るとさっぱりわからない、と皆がぼやき、苦笑まじりにそう言うために手に取るという奇妙な現象を生んだことだ。

ミソは、序章ならなんとか読める、という点にある。そして売れた理由もこの序章にあった、と当時をふり返って僕は思う。ここにキラーセンテンスが盛り込まれていたのである。それは、「ぼくは時代の感性を信じている」だった。例に洩れずに僕も、このフレーズにシビれ、意味をよく理解しないまま、自分もどこかで使ってみたいと思ったものだ。そしていま、僕は逆のことを考えている。「僕は時代の感性を信じない」と。
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文=榎本憲男

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