人間は、パターンを探し求め、ストーリーテリングを行う生物だ。我々はストーリーに依存している。たとえ体が眠っていても、心は一晩中覚醒しており、自分自身にストーリーを語り聞かせている。
子どもが得てしてそうであるように、筆者も幼いころからストーリーが大好きだった。真空管が発熱して暖かくなったラジオに体をくっつけるようにして、西部劇の「ローン・レンジャー」や「シスコ・キッド」といったラジオ番組を聴いたものだ。歴史上の人物の伝記もせっせと読んだ。心を引きつけるストーリー仕立てであれば、歴史を学ぶことは一向に苦ではなかった。
10代に入り、さらに大学に進学すると、ラジオパーソナリティのポール・ハーヴェイのファンになった。ハーヴェイは語り口が独特で、ニュースを読む際に、ハラハラさせるような間を挟んだり、イントネーションにひねりを効かせたりすることで知られていた。とはいえ、私が引きつけられたのはハーヴェイの話し方ではない。何よりも魅力を感じたのは、ストーリーの伝え方だった。
ハーヴェイは、ストーリーのためだけにストーリーを語ることは決してなかった。ハーヴェイにとってストーリーは、どんなときでも、より大きな主張を伝えるための媒体だった。ラジオ番組であることも、ハーヴェイに味方した。コマーシャルの時間になってストーリーが中断されると、リスナーたちは、期待に胸を膨らませて続きを待ったものだ。コマーシャルが終わると、ハーヴェイはいつも決まって、「それでは……ストーリーの続きに戻りましょう」と言ってから話を続けた。
ハーヴェイの語るストーリーは、愉快なものもあれば、心に訴えるものもあり、驚きの結末を迎えるものもあった。しかし、彼の語るストーリーには決まって大事な主張があり、それは覚えておくに値するものだった。
筆者は、ビジネスと政治を専門とする若いジャーナリストだったころ、講演会などに出向いたときは、あえて会場の端のほうに陣取るようにしていた。そうすれば、話し手とオーディエンスの両方が視野に入るからだ。見晴らしのいい位置にいたことで、非常に興味深い点に気がついた。
オーディエンスはふつう、熱心に話を聴いていた。しかし、話し手が例えば、「一例として、あるストーリーをご紹介しましょう」などと言うと、かなりの数のオーディエンス(時には何百、何千人も)が、頭をほんの少し上げ、前に乗り出したのだ。それがたった1人であれば、その動きは目に留まらなかったかもしれない。気がついたのは、たくさんの頭が同時に同じ動きをしたためだ。
最初は、自分の勘違いだろうと思ったが、それ以降、そうした動きがないかと注意するようになった。すると案の定、これから「ストーリー」を話しましょう、と話し手が口にすると、オーディエンスは明らかに積極さが増すようだった。
古代から、人の上に立つ人間は、人々が変化に適応できるよう、ストーリーを語ってきた。ストーリーはイメージを形成し、ある状況について共通した反応を人々のなかに呼び起こす。ストーリーがあるからこそ、人々は勇気と想像力を奮い起こし、困難に立ち向かいやすくなる。