経済・社会

2024.08.15 08:15

長崎の式典を巡る混乱、晴気誠少佐が嘆いていないか

晴気少佐慰霊碑

今年も「終戦の日」がやってきた。来年は戦後80年だが、今から80年前の1944年(昭和19年)8月15日、日本はすでに重苦しい空気に包まれていた。この年の7月、絶対国防圏としたサイパンが陥落した。東条英機内閣は倒れ、後を継いだ小磯国昭内閣も継戦の意志は示したが、「一撃講和論」しか描けず、もはや戦争で勝利をつかむことは不可能な状況だった。日本はそれでもなお1年、戦争を続けたが、広島・長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦などに至り、最終的には軍が天皇の信頼を失い、終戦に至った。

東京・市谷の防衛省の敷地内には、終戦に伴い命を断った軍人たちの慰霊碑が置かれている。「陸軍大臣 陸軍大将 阿南惟幾 荼毘之跡」は、終戦の聖断に反発する陸軍をまとめた後、陸相官邸で自決した阿南陸相を祀ったものだ。「杉山(元)元帥 吉本(貞一)大将 自決之跡」もある。杉山元帥は第1総軍司令官、吉本大将は同軍司令部付として、それぞれ敗戦の責任を感じ、45年9月12日に自決した。

このなかで、異彩を放つのが「陸軍少佐 晴気(はるけ)誠 慰霊碑」だ。碑文によれば、陸軍大本営参謀だった晴気少佐はサイパン陥落の責任を痛感し、45年8月17日に自決した。晴気少佐の自決を気の毒に思った瀬島龍三氏ら、当時の参謀本部作戦課の有志が20年後の65年8月に慰霊碑を建立したという。

晴気少佐はサイパン防衛の作戦立案を担い、米軍上陸部隊の戦力が海上と陸上に分離する弱点を捉える水際撃滅の方式を採用した。しかし、米軍の艦砲射撃や爆撃など、圧倒的な火力に対抗できなかった。米軍上陸の報告を受け取った晴気少佐は自ら、サイパンに赴こうとしたが、すでに米軍が制空権を握っていたため、断念したという。

サイパン防衛作戦の失敗は晴気少佐だけの責任ではない。当時の日本軍は最前線のニューギニアやソロモン方面での対応に追われていた。サイパン防衛の中核を担う陸軍第43師団の主力が到着したのは、米軍の上陸開始まで1カ月を切った時点で、十分な陣地の構築もできなかった。水際撃滅作戦も、そもそも日本海軍が上陸部隊を含む米機動部隊を攻略することが前提の作戦だった。しかし、米軍が上陸を開始した直後の44年6月19、20の両日、日本海軍の空母機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、事実上壊滅していた。

サイパンの戦いでは、日本軍は総兵力約4万4千人のうち4万1千人余が戦死し、民間人約2万人のうち、8千人から1万人が死亡したと言われる。大勢の人々が亡くなった責任を、晴気少佐は自ら背負おうとしたのだろう。

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文=牧野愛博

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