「スポーツマンシップ」の章で選手団入場がクライマックスを迎える。今後の五輪開催国であるオーストラリア、米国と続き、最後にフランス代表団を乗せた大船が登場した。
選手団の船は選手たちの個性を表すかのように大きさも形も様々。橋の上と川の上のステージではその多様性を讃えるかのように激しいダンスが続いていた。性別を超えた衣装、障害を乗り越えた踊り、そして暴力の虚しさを訴える歌が淡々と響いた。
が、突然「暗闇」の章に移る。あらゆる照明が消えて世界は真っ暗になった。そして真っ黒なピアノが燃やされ炎が立ち上がる。しかしピアニストは曲を奏で、歌手は歌う。その歌は「イマジン」だった。
暗闇に響く故ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさん作の「イマジン」。過去の開会式でも使われている。五輪の思いを伝えようとするとこの歌しか浮かばないのも事実だ。宗教も政治も人種も経済も超えて一つになろう! まさにオリンピズムではないか。
私はオリンピック運動に携わってから、スポーツで世界平和をと訴えてきた。そのために様々な挑戦もしてきた。「コロナ禍の東京でなぜオリンピックを開催しなければならないか」の議論でも開催を熱く訴えたのは、突き詰めれば「世界平和を実現できる」わずかな希望がオリンピック開催であると思えたからだ。
しかし現実が突きつけられた。コロナ禍で開催された二つのオリンピックはわずかな希望を繋げたと思ったが、北京冬季五輪が終わってすぐにロシアはウクライナ侵攻を始めた。国連が決議したオリンピック休戦を破って。「暗闇」は今を表現しているようだ。
イマジンは歌う。「僕のことを夢想家と言うかもしれない でも僕は一人じゃない いつかみんな一緒になって そして世界はひとつになる」(筆者訳)と。夢見事、絵空事と揶揄されようが、オリンピズムを信じて歌い続けなければならないというメッセージ。イマジンが今後五輪開会式の正式儀典となっても驚かない。
暗闇を突き抜けるべく「連帯」のテーマへ流れると、仮面の騎士が五輪旗をはおり、機械の銀馬に跨った。水上を走る白銀の騎士と馬は勇壮であった。選手たちが一つになるために走り抜ける勇敢さを見事に表していた。
騎士と表現したが、騎士が持つべき武器は一切持っていない。持っているのは五輪旗だけ。平和の騎士なのだ。選手そのものなのだ。
トロカデロ広場までの長き水上を駆け抜ける間、幾つもの橋を抜けるとその橋に翼が現れる。これはこれまで行われてきた放鳩という儀式を進化させたものだ。1936年の五輪から選手団入場の後に平和の象徴である鳩を放つことが儀典化している。選手の走った後に平和ができる。
突然、クーベルタンの肖像が現れ、過去のオリンピックの映像が映った。ボランティアによって各国国旗が広場に集まる中、騎士は白馬に乗り、五輪旗をあずかり、掲揚台に向かう。五輪(オリンピックシンボル)をデザインしたのは五輪創始者クーベルタンである。この騎士はクーベルタンの化身かもしれない。最後までその姿は表さなかったが。「五つの大陸が共に交わり合って世界を作る」五輪の理念が集約された五輪旗が掲げられ、オリンピック賛歌が合唱された。
オリンピックとその他の国際競技大会との根本的な違いは、オリンピックには理念があるということだ。
それは「スポーツで平和な世界を構築する」というオリンピズムである。その理念は選手たちの闘いの中で表現されるが、オリンピックはその時々の大会の思いを開会式に象徴させる。今大会のそれは何だったか?
IOC(国際オリンピック委員会)のトーマス・バッハ会長が認めるように、この大会は全てを「より包み込み、より街中的で、より若者に寄り添い、より持続できる可能性のある大会」であろうとしている。その思いは開会式の随所に見えた。例えば、ダンスはクラシックもありコンテンポラリーもあり、さらに新競技ブレイキンも演じられた。