“最後にはどうせ砂の中に行くんだ、美しいね、ぼくたちは、ぼくたちという生き物は、何よりも美しいんだよ”──これは水沢の詩作「シェヘラザード」の一節だ。自己と他者、ひいては人間か生物かさえもぼんやりとして、また、永遠と刹那が同居するようだ。
関係性というものが持つ尊さや美しさを描きながら、同時に孤独を感じさせる。水沢の描き出す言葉の世界に魅せられるのは、そのような感情の揺らぎに共感を覚えるためではないだろうか。
詩とは何か?
幼い頃から絵を描くことが好きだった一方で、高校生の時には小説を書くことにも夢中になった。そんな折、詩と出合うことになる。「きっかけは、“この世でいちばん美しいのは詩だよ”という国語の先生の言葉。最初は“詩?”という感じでピンとこなかったのですが、“美しい”という言葉がとても印象的に響きました」と水沢は言う。自分も詩を作ってみたいと机に向かうようになった。しかし、小説を書き慣れていたこともあり、詩と小説との違いが明確にならない。詩とは何か……と考えるなか、大学に入ると現代詩の専門誌『現代詩手帖』を知り、作品を投稿してみることにした。
「でも応募した後に、“やっぱりあれは詩じゃないかもしれない”と思い、“連”や“韻”を意識する、といったオーソドックスな形式で作り直してまた送ったんです。ところが、最初に送った詩が掲載されることになって驚きました」
その掲載が機となり、詩は自由だということを実感。絵を描きたいのか、言葉を書きたいのか、自分のやりたいことは何かと葛藤していた時期でもあったが、次第に詩の表現に傾倒していくことになる。
「絵を描いている時は、どこか自分の表現したいものが完全に表現できないもどかしさがありました。でも詩を書いている時は、枠にとらわれなくていいんだと思うと、自分の伝えたいことがそのまま表現できるような感覚を持てる」
だが自由とはいえ、現代詩にも何か形式にのっとらねばならないルールのようなものはないのだろうか。「読んだ人がどう感じるかはわからないですが、つくり手が『これは詩だ』という信念を持っていれば、私はすべて詩だと思う。特に私の作品は小説と詩のあわいにあると言われることが多く、自分でもまだ明確に定義できていないのですが、自分の中では確信的に詩なんです」。
曖昧な感情をそのままに
水沢がこれまでに発表した詩集や小説には、「生む」という言葉がキーワードのように通底して現れる。「人の関係性というのは、美しく尊いものだと感じる反面、すごく寂しくて切ない孤独もつきまとうものです。生まれる一方で消えていくものがある。そのように自分の中の相反する感情というものをずっと考えています。その感情が書きたいと思わせるのかもしれません」