日本でピアスカイの薬事承認が下りたのは3月。経営者としてはビジネスへのインパクトが気になるところだが、CEOを務める奥田修がまず感じたのは「やっとここまで来た」という達成感だった。
「この薬をロシュに導出したのは15年。抗体を創薬し、この段階に至るまで10年以上かかっています。その間、抗体をつくる人、毒性を確認する人、抗体を大量に生産する人、臨床試験をする人、マーケティングを企画する人と、多くの関係者がバトンをつないできた。そのことを思って胸がいっぱいになりました」
胸が熱くなった理由はほかにもある。ピアスカイを創製したのは、中外が12年にシンガポールに設立した研究所CPR。ピアスカイは世界各地で申請が完了しており、順調に進めば、CPRのみならずシンガポールにとっても、初めて創薬し、開発に成功したグローバル医薬品となる。
「CPRは5年間の時限研究所としてスタートしましたが、うまくいっているので2度延長。今年2月に時限を撤廃して恒久的な研究所にしました」
ピアスカイは02年のロシュとの戦略アライアンス以降5つめのグローバル製品。その意味でも中外のグローバル戦略を象徴する新薬のひとつといえるが、実は奥田自身も同社のグローバル戦略の申し子である。
大学は地元の岐阜薬科大学へ。医薬の世界を志したきっかけは、祖母の関節リウマチだった。
「祖母は目も悪くなっていました。それでも孫の成長を確かめたいのでしょう。関節が脱臼した手で、小学生の私を抱きしめるのです。いかにも痛そうで、いたたまれなくなった。それが心に残っていて、何とかしてあげたいと薬の道に進みました」
ただ、関心の向かう先は研究より世界だった。薬科大や薬学部では大学院卒業以降に留学するケースが多いが、奥田は学部生でカリフォルニアに留学。岐阜薬科大では初めての事例だった。