朱 喜哲の名刺には、電通における「チーフ・リサーチ・ディレクター」というポジションとともに博士号を意味する「Ph.D.(Doctor of Philosophy)」という肩書きも記されている。
博士号取得者は専攻分野を問わず、直訳すると「哲学博士」という意味の「Doctor of Philosophy」と呼ばれている。これはどうしてだろうか。古代ギリシア語「philosophia(哲学)」の原義は、「知恵を愛すること(philo=何かを愛すること、sophia=知や賢さ)」であり、哲学とは元来、内的な思索と理性的な判断によって論理的に発展させる知恵の学問全般だからだ。
大阪大学大学院文学研究科で哲学・哲学史コースの博士課程を修了し、学位を取得している朱は、まさに「Doctor of Philosophy」だ。現在はチーフ・リサーチ・ディレクターであり、哲学という知の泉の遊撃手であり、マーケターでもある。
今、「ELSI」というフレームワークが求められている
谷本有香(以下、谷本):朱さんの名刺にある「チーフ・リサーチ・ディレクター」という肩書きは、どのような職位なのでしょうか。朱 喜哲(以下、朱):私の肩書きにある「リサーチ」には、「研究」という意味合いが強く含まれています。私は電通に籍を置きながら、哲学・倫理学を専門とする研究者としても活動し、著書なども複数公刊しています。大学のほうでは、現在、大阪大学社会技術共創研究センターで招聘(しょうへい)准教授も務めています。
大阪大学の社会技術共創研究センターは、通称「ELSI(エルシー)センター」と呼ばれています。2020年4月にELSIセンターが正式に発足する以前の19年9月に、私は大阪大学教授で現在はELSIセンター長も務める岸本充生さんと産学共創による「データビジネスELSI研究会」を立ち上げました。
谷本:そのELSIという言葉が、朱さんを知るためのひとつのキーワードになりそうですね。
朱:ELSIは、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)の頭文字から成る言葉です。新たな技術を社会実装する段階での技術面以外のあらゆる課題を考えるために機能するのが、ELSIというフレームワークと言えます。
もともとは1990年代にアメリカで始まったヒトゲノム計画の文脈で活発に意見交換されていた「人間の遺伝情報がすべて解読されたら社会にどのような影響を与えるか」という議論から生まれた概念です。それが、2010年代に「新たな科学技術を社会実装する際に生じる技術以外の諸課題」に対処するフレームワークとして、データビジネスの領域においても使われ始めたのです。
谷本:今、デジタルプラットフォーマーだけでなく小売業や交通事業といった多岐にわたる事業領域において、ユーザーデータを取得して自社や顧客企業のマーケティングやプロモーションに利活用するデータビジネスが盛んになっていますね。
データを取り扱う企業に対して、「正しくハンドルしてもらえているのかな?」という不安は誰もが抱えているのではないでしょうか。今、世界は、そうした不安に立ち向かえる何かを探していると感じています。
朱:まさにそうです。現在、データビジネスで取り扱われているのは、狭義の個人情報からインターネット利用履歴、購買履歴、スマートフォンやタブレット端末などのスマートデバイスで取得できる位置情報(デバイスロケーションデータ)まで、実に多岐にわたっています。
さらには、AI・機械学習によるアルゴリズム、各種センシングによる認証技術、ウェアラブルデバイスによるPHR(パーソナルヘルスレコード)など、テクノロジーが目覚ましい進化を遂げ、新しい技術が次々に社会に実装されようとしています。
こうしたデータを生産しているのは生活者その人ですから、未知のテクノロジーへの抵抗や不安をどのように解消して、データ利活用企業への信頼を醸成するかというのは、データビジネスが健全に成長するうえで欠かすことのできない大課題です。ときに「炎上」として発露するような、生活者の不安感と真摯に向き合うためには、とりわけ倫理的課題を中心とした「ELSI」というフレームワークが活躍します。
あらゆるステークホルダーに届く倫理の言葉を探して
谷本:その「ELSI」というフレームワークと関わりながら、朱さんはどのような取り組みをされているのでしょうか。朱:ふたつのベクトルが存在しています。ひとつは、冒頭でも触れた研究の類(たぐ)いです。もうひとつは、クライアントワークになります。
大阪大学との産学共創プロジェクト(=データビジネスELSI研究会)では、「データビジネスにおけるELSI対応のあり方」について一貫して「共創研究」を行い、倫理的・法的・社会的課題の解決に向けた「ルールづくり」や「ルールの運用の仕方」などについてニーズをもつクライアントとの共同検討を重ね、具体的な社会実装を行ってきました。
学術側メンバーの専門性もさまざまで、私は哲学を修めていますが、ELSIセンター長である岸本教授の専門はリスク学です。他にも倫理学の専門家など、人文・社会科学の「Ph.D.」が集って、新しい技術・新しい概念についての言語化に挑んできました。
谷本:非常によくわかります。私たちは、得体の知れないものに対して不安や不信を抱きます。そうした感情を抱えたままでは、対象への共感は生まれません。
新たな技術やサービスに接する際の不安から人々を解き放つカギは、言葉にあるということですよね。得体の知れないものも言語化されて理解が生まれることで、エンゲージメント(深いつながりをもった関係性)の基盤に成り代わります。
ここで、ひとつのクエスチョンが浮かんできます。ELSIで言うところの「倫理的(エシカル)・法的(リーガル)・社会的(ソーシャル)な課題」を切り分けて考えた場合、それぞれをどのように理解するといいのでしょうか。
朱:コンプライアンスの徹底という意味では、リーガル対応がまずは何より重要で基本となります。しかし、自分たちの事業に関係する法律を自分たちで自由に生み出すわけではありません。そもそも、法整備は先行する技術変革・社会実装の後追いになるという実情があるため、現行法だけを遵守していても、将来的な事業の持続可能性は担保できません。
また、何らかの火種によって、SNS起点の「炎上」がいつでも発生しうる現在、ソーシャル対応も企業にとっては必須です。しかしながら、その対応は「予見が難しい状況での予防策」に限られがちであり、自分たちの意思で主体的に仕掛けていく範疇とは乖離しています。
このように考えると、実は企業にとって主体的・自律的に取り組めるのは、エシカル対応であると言えるでしょう。自社の倫理的規範であれば、自社の理念・パーパス等と照らし合わせながら自律的に明確化、すなわち言語化し、あらゆるステークホルダーと積極的なコミュニケーションを図ることが可能だからです。
以上のような実情から、企業のエシカル対応へのニーズが、今、高まっています。
谷本:そのような企業に対し、朱さんはどのように働きかけているのでしょうか。
朱:ELSI対応全般のルール整備を推進していくのはもちろん、企業のプライバシーポリシーやプライバシーデータを扱う部署に研修を行ったり、データ倫理指針の策定を手伝ったり、ELSI人材の育成研修を提供したりしています。
谷本:データ倫理指針を策定して社内外に浸透させる一連の取り組みは、まさに新しい技術・新しい概念についての言語化作業なくして始まりませんね。
朱:社員がその企業のバックグラウンドを共有して、同じ方向を向くために、一緒に議論していく取っ掛かりとなるのが倫理です。議論しながら、自分たちのあり方・目指すところを考える際には共通して参照できるボキャブラリーが必要です。漠然と感じられている不安や警戒心、一種のヒヤリハットについて、共通の言葉で話そうとするとき、哲学・倫理学が鍛えてきた概念が役立ってきます。私の役割はクライアントのボキャブラリーに寄り添い、そのボキャブラリーの機微を考えながら、「こういうことを大事にしているのではないですか」とサジェストおよびファシリテートをしていくことです。
谷本:朱さんは、議論を促し・深めていく役割を果たされているのですね。それでは、より具体的なお仕事の一例についても教えてください。
朱:例えば、ある交通事業社では、MaaS(Mobility as a Service)の推進という形でデータビジネスに関わっています。その企業には、大阪大学と電通による産学共創プロジェクトに参画していただき、全10回もの研究会を積み重ねてきました。
そのなかで、データの取り扱いに関する倫理指針の策定、プライバシーポリシー改正の支援、データを活用した新規事業についてのプライバシー影響評価の監修などを実施してきました。
また同社で21年度に設置された個人情報を保護・管理する専門部署において、パーソナルデータの取り扱いに関する方針や運用ルールの再構築支援、ELSIリテラシーを身につけるための研修プログラムの提供などもしています。
谷本:今、企業が掲げる倫理観こそが、その企業における競争優位性の源泉にもなる。そのような時代が訪れていて、アカデミアとエンタープライズの知をつなぐ朱さんのような媒介がいてこそ、「あらゆるステークホルダーに届く倫理の言葉」が創り出されるのですね。
インハウス・フィロソファーとして「理由」を提示したい
朱:私は哲学の研究者としては、おもにプラグマティズムというアメリカ発祥の哲学を専門にしています。これを「コミュニケーション、会話についての哲学」とよく説明することもあります。例えば、ある判断を相手に納得してもらうためには、理由をつけて正当化することがよくありますね。こうした正当化、理由のやりとりという営みを中心としたコミュニケーションの解明について研究を続けています。また、11年に電通に入社して以来、私は各種のデジタルソリューション開発とデータ流通戦略に従事してきました。14年ごろからはスマートフォンの普及とともに位置情報データを活用した広告技術やマーケティング手法の開発が日本でも本格的に始まり、私もその黎明期から関わってきました。このようにデータビジネスの最前線に身を置いているからこそ、哲学への新しいニーズが見えてきました。
谷本:データを取り巻く環境の変化、データ利活用方法の進化に直面しながら、データマーケティングやデータアナリティクスについての知見も積み重ねてこられたのですね。
朱:結果として今では、「Reason to believe=信じるに値する理由」を提示することが、哲学者としてもマーケターとしても自分の役割ではないかと考えています。倫理は、競争力の源泉にもなりえます。「信じるに値する理由」を言語化したものが、倫理だからです。商品がもたらす便益や機能性を超えて、倫理と紐づいた企業やブランドのイメージこそが、現代のリーズン・トゥ・ビリーブになりえるのです。
私は今後、「インハウス・フィロソファー(企業内哲学者)」という職種を確立したいと思っています。そして、日本のあらゆる企業に「企業内哲学者」が必要かもしれないと考えています。倫理的なボキャブラリーを学び、自社の風土をベースにしながら自社ならではの倫理について議論を促していける「企業内哲学者」がいてこそ、その企業はステークホルダーからの信頼を獲得できるのではないでしょうか。
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この世界は幾多の哲学者を生み出してきた。「より善く生きていくための道しるべ」を提供してくれるのが哲人だと言えるだろう。
そうした哲人ならではの思考力・言語力が企業に注入されれば、データビジネスにおけるエシカル対応という範疇を超えて、企業がステークホルダーと手を取り合ってより善く活動していく契機にもなる。
ビジネスエシックス(企業倫理)の取り組みは今、「企業内哲学者」の存在とともに、より高次なものへと進化を遂げようとしている。
dentsu Japan
https://www.group.dentsu.com/jp/
ちゅ・ひちょる◎2011年、大阪大学大学院文学研究科哲学哲学史コース博士前期課程を修了後、電通に入社。マーケティング・アナリティクスおよびプランニングに従事し、データビジネスの倫理的課題の研究と社会実装にも取り組む。 2019年、大阪大学大学院文学研究科哲学哲学史コース博士後期課程を修了。博士(文学)。単著に『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『〈公正〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『100分de名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』(NHKブックス)、共著に『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、共訳に 『プラグマティズムはどこから来て、どこに行くのか』(勁草書房)など。