これに対して、ほとんどのスタートアップは、ここまでの売上高に到達することは難しいでしょう。NPO経営者や映画監督、スポーツチームの監督、芸術家も売上高という視点では水道局長には全然届きません。では、毎日必死の思いで多くの人を幸せにする道を探している彼ら・彼女らは、世界中の水道局長と比べて経営者として劣っているか、そんなはずがないことは考えるまでもないことです。
日本において「本来の経営」が急速に失われたのは、平成時代の円高やデフレにより、手段であったはずの金銭の価値が高まり、金銭に振り回され、目的であるはずの人間の共同体をなおざりにしてきたからだと考えています。単なる手段のはずのものが希少に思えてしまい、手段に振り回されるという「経営の欠如」のわかりやすい例でもあります。今や日本には「価値は有限でしかない」という誤った観念さえ普及しています。限りあるものを奪い合う発想は短期利益思考と部分最適思考に支配されてしまう。
こうした「価値有限思考」を、経営によって価値は創造できると考える「価値無限思考」に転換することが今後は重要になります。人類史を振り返ると、これまで人類は価値創造を生み出し続けることで幸福を増大させてきました。大事なのは、この「価値は無限に創造できる」という思考をもつことです。このように考えれば、他者は奪い合いの相手ではなく、価値のつくり合いの仲間になる。企業にとっては、顧客から他企業まですべてが「価値創造を行う共同体内の仲間」に変わります。
確かに、世界および日本の経済、社会、企業を取り巻く環境は、問題が山積みです。ですが、私は「本来の経営の目的でもある価値創造(=他者と自分を同時に幸せにする)をまず行うこと。そうすれば、利益も経済成長も後からついてくる。経済成長と社会・自然環境改善は両立可能」と考えています。無限の価値創造を目指して、価値創造の障害となるさまざまな対立を取り除いていけば、それらの解決の糸口は見つかるはずだからです。そのためには、私たちがまず、経営という言葉を本来の意味に戻し、価値創造によって共同体全体の幸せを実現する「経営人」たちの集まりに戻る必要があるのではなないでしょうか。
岩尾俊兵◎慶應義塾大学商学部准教授。慶應義塾大学商学部卒業後、東京大学大学院経済学研究科マネジメント専攻博士課程修了。博士(経営学)。22年より現職。著書に『世界は経営でできている』(講談社現代新書)、『13歳からの経営の教科書』(KADOKAWA)など。