その夜、大学人行きつけの居酒屋に、旧知の出版社編集長がはるばる東京から訪ねて来てくれた。学生運動の闘士だった彼は、この店で紹介した経済原論の教授と盛り上がっている。学生時代に1964年の佐世保の原子力潜水艦寄港反対デモで偶然一緒だったらしい。
芋焼酎をぐっと呷ると、編集長が居住まいを正した。「川村さん、金融投資教育の本を出しませんか。それも大人向けではなく子ども向けに」。昼間の委員会の後、気分が落ち込みがちだった私は、思わず膝を乗り出した。かねがね金融投資教育は生涯教育であり、子どものころから身近なリテラシーとして養成すべきと痛感していたからである。
すると、マル経教授が割り込んできた。「その通りですよ。命の次に大切なおカネのことを学校できちんと教えないのはおかしい」。彼は、驚くほど詳細に自身の年金額、老後の必要資金について語ると、「保有株式は合計2万株ほどです。大半がバブル前に買ってたもの。高配当の電力株と新規上場ものとでかなり良いパフォーマンスだ」とほほ笑んだ。ふと、上海で、庶民がマルクスの巨像の下で、儲かる株について口角泡を飛ばしていた光景を思い出した。
当時、失われた10年とデフレスパイラルが語られ始め、日本経済の再浮上のためには成長資金の供給が不可欠だ、と叫ばれていた。ベンチャー育成、産学官連携がいいはやされ、金融システムでは、前世紀末の金融ビッグバンを実行に移すべき時期だと強調されていた。元本保証型の金融だけではなく積極的なリスク投資にシフトすべきだといわれていた。
だが個人金融資産の構成は、それまでの数十年間同様、現預金が6割、保険・年金3割で有価証券は1割程度で固まっていた。いくらリスク投資を掲げても個人は動かなかった。
関係業界、とくに証券界は金融投資教育に注力した。社会人向けの諸講座から大学での寄付授業、中高生対象の投資ゲーム等々、業界団体から個社まで熱心に取り組んだ。私自身、彼らと共に講演、授業、執筆からテレビ、ラジオ出演まで全国を飛び回っていた。
それでも金融投資教育はなかなか根付かない。その根本理由を突き詰めていくと、学校教育に行き当たる。教育の場で金融、まして投資について教えることはほとんど皆無だった。10歳前後の子どもたちには無縁の存在だった。それゆえ、長崎の居酒屋会議の結論は、絵本仕立ての著作で行こう、となった。