この書籍の奇怪なほどの大ヒット現象は今、出版業界に文字通りの旋風を巻き起こしている。発売後は「毎日増刷」、直近の2カ月で60万部増刷という状況は、氷河期といわれて久しい出版業界の大快挙にして大事件だからである。
書籍業界には、刷り部数がいったん損益分岐点を越えれば、あとは「本ではなく紙幣」を印刷することになる、というジョークがある。『変な家』シリーズを手がけた担当編集者・杉山茂勲氏は、破格のヒット書籍を市場に送りだし、印刷所を「造幣局」にしてしまった男なのである。
1作目の発売までは一度も対面しなかったという覆面著者「雨穴」氏との出会い、書籍化までのコミュニケーションとは。そして杉山氏は何を「怖い」と感じるのか──。
東京神保町、飛鳥新社に杉山氏を訪ねた。
「大変なものを見つけてしまった」
「これは大変な才能を見つけてしまった、と思いましたね」
杉山氏がYouTubeで「変な家」の動画を見つけたのは、2020年11月4日のこと。2次元の間取り図からたちまちのうちに立体的に立ち上がる恐怖、計り知れぬ奥行きの悲劇や怨念──。
たった1枚の図面からこんな物語のアイディアを発想するとはただものではない、と戦慄すらおぼえたという。不気味なストーリーと、それを語る雨穴氏の「かわいらしい声」のギャップも鮮烈だった。
「『この人が本を書いたらきっと10万部はいく』と直感して、動画を見て10分後には依頼のメールを書いていました」
雨穴氏の連絡先はTwitter(当時)のDMしかなかったが、杉山氏自身はTwitterアカウントを持っていなかったので、会社の公式アカウントから連絡した。
「同僚に見られてしまうのが恥ずかしくてすぐに消したんですが、下書きしたテキストを印刷しておいたんです」。と言って見せてくれたのがこれである。
文面は以下のとおりだ。
「はじめまして。私は飛鳥新社という出版社で書籍編集の仕事をしている杉山と申します。
このたびは、雨穴さんの【不動産ミステリー】変な家の書籍化をご提案したくご連絡をいたしました。
私自身、遅ればせながら昨日、YouTubeにて雨穴さんの存在を初めて知り、即ハマりました。
特に「変な家」については、あの物件に対する他の推理や、栗原さんとは何者なのか、ネット上では様々な憶測を呼んでおり、大変注目されています。
ぜひ続編も含めての書籍化はいかがでしょうか。かなり売れそうな気がします。
もしよろしければ一度お会いしてお話しさせてください。電話やメール等のやり取りでも構いません。
既に多くの出版社からお話が来ているかもしれませんが、何卒、ご検討いただけたら幸いです」
ただ、実際に杉山氏が送ったDMとこのプリントアウトでは、1カ所だけ違いがある。プリントされたものでは「昨日」となっている部分だ。文面を翌朝の頭で推敲しようかと思ったのと、1日置いて熱をいったん冷まそうかと思ったらしい。
しかし杉山氏は、「記憶では動画を見てから10分足らずで送信したので、送るときにここは『さきほど』などと修正したのだと思います」と回想する。動画はその時点ですでに200万回再生くらいあったので、他の出版社からすでに声がかかっているかも、それにしても早い方がいい、と考えたのだ。
数日後に「興味があります」と短い返事があった。「一度会いたい、と伝えたのですが、メールで大丈夫ですので、と言われて──。結局『変な家(1)』が刊行されるまでは、一度も会いませんでした。