2006年に絶版となっていたが、18年の時を経て、『ザ・スタートアップ ネット起業!あのバカにやらせてみよう』として5月8日に復刊することが決まった。ここでは同書第4章「誕生 ビットバレー!」より、一部転載して紹介する。
1999年は、渋谷における市民革命の年、ビットバレーの年であった。だが意外にも、ビットバレーは銀座からスタートした。ニューヨークのネットベンチャー群の支援団体に接した経験から、その日本版設立のために一枚の宣言文を起草した小池聡は、1999年2月21日日曜日夜、西川潔、宮城治男ら10人程度のネットベンチャー経営者たちに招集をかけた。場所は銀座のとあるサロンである。場所柄から、小池の気負いが読みとれる。だが、当時のネットベンチャーというのは、今とは違ってひ弱な存在であった。カネに縁もなく、社会的認知度も低い。
この場には、何人かの重要人物が出席していた。松山太河。この長髪の若者は1974年生まれ。早大卒業後、アンダーセンコンサルティングに入社。西川が発行していたメールマガジン(「週刊ネットエイジ」、富士 通総研の調査で発見した興味深いアメリカのビジネスモデルについてネットベンチャー向けの啓蒙を行ったもので、業界ではかなり読者が多く、一年間で発行部数は4000部になっていた)を見て「面白そうだ」と思った松山は、いきなり西川を訪問し、そのままネットエイジに居ついてしまう。そこで彼が携わったビジネスが、顧客からの自動車の見積依頼を販売店に紹介するネットディーラーズだった。松山は、孫正義の実弟でインディゴ社長の孫泰蔵と友人であった。インターネット関連ビジネスへの参入を考えている大企業から個人までに、経営面、技術面、財務面での支援を行う企業で、検索エンジンのヤフー・ジャパンの開設(1996年4月)に参加する形で創業し、学生100人を動員してヤフーのデータベースを構築。この二人のラインで、立ち上げて二週間足らずでネットディーラーズのソフトバンクへの売却がまとまった。その後、松山は役員をつとめていたネットエイジを去り、ビットバレー・アソシエーション(BVA)の役員となる。
小池はこの日、顔を揃えた面々にA4大の紙を配った。そこには、「ビターバレー 構想」と書かれていた。
Bitter Valley 構想
〈設立趣旨〉近年の米国におけるネットワーク・エコノミーの興隆は、シリコンバレー(北カリフォルニア)、シリコンアレー(ニューヨーク)、デジタルコースト(南カリフォルニア)、ルート128(ボストン)といった地域密着型コミュニティーにより発展してきました。日本においても官公庁、大学、 研究機関、ベンチャー・キャピタル、民間企業、各種団体等の協力を得ながら情報の共有化、教育を行い、また海外との交流を図りながらインターネット関連ベンチャー・ビジネスの創出、育成が急務となってきています。 東京でも若者の町として現在も多くのインターネット関連ベンチャー企業が集中する渋谷区周辺地域を(渋谷)と命名し、日本におけるネット・ビジネスのメッカとして多くのベンチャー企業を誘致し、投資を呼び込み、情報の共有化と競争によりベンチャー企業の底上げを行うこ とを目的とします。
〈オープンな相互支援組織〉
この組織は、オープンな相互扶助を基本とする組織でなければならないと 思っています。ニューヨーク・ニューメディア・アソシエーション(NYNMA)も起業家、学生、大企業、弁護士、会計士、ベンチャー・キャピタルなどい ろいろなメンバーが自由に参加しています。それぞれビジネス上のメリットは大いに求めてWin-Winのシチュエーションをつくるべきだとは思い ますが、閉鎖的な組織にはしたくありません。シリコンバレーもスタンフォード大学周辺から広がって地理的には、かなり広範囲に広がっています。 たまたま渋谷=Valleyだったわけで、象徴的な名称として使うことはあれ、 渋谷区に限定する必要はありません。東京以外の人、企業でも入会は自由であるべきだと思います。
〈海外との交流〉
ニューヨーク、シリコンバレーなどの団体との交流も重要です。各種団体との提携も図っていきます。また、起業環境の違いから米国での起業も促進して行ければと思います。シリコンバレーでもイスラエル、中国、インドなどから多くの起業家が渡米し事業を起こしています。日本人も殻に閉じこもらずにもっと世界に出るべきだと思います。